人の居場所がなくてはならない① 社会関係資本を築くべき

 

パットナムの唱えた「社会関係資本」は人間の絆や信頼を指す概念であり、社会の分断が進んでいる現代にこそ必要とされるべき考え方です。

社会の分断の背景としては格差の拡大、競争の激化などがあり、他者は協調すべき相手ではなく負けないように警戒するべき相手へと変わってしまっています。

また核家族化や都市化によって家族、地域社会の絆が弱まっていることも関係しています。

 

近代化に伴って資本主義、個人主義が成立するまでは、自分の職業や生き方を選ぶことのできない不自由な時代でしたが、それは言い換えれば親や組織にさえ従っていれば安心な時代でした。

やがて人々は自由を手に入れますが、それは同時に責任や不安、孤独が強まったことを意味しました。

人々が自由を手に入れて個人単位で生きられるようになったのは輝かしい歴史であるといえますが、それとともに個人は強い緊張感、疎外感を味わうことになったのです。

だからこそ個人主義が進んだ現代でも人々が心のよりどころにできる、「社会関係資本」の役割を果たすコミュニティが廃れないように努力していくべきです。

 

現代はネット社会となり、多くの書き込みがされてその空間に人々が安らぎを求め始めていることも個人の孤立を象徴しているように思えます。

ネット社会という空間は少数意見やマイノリティへの暴力的、排他的な意見があふれているという点で、不健全さの残る場だというべきです。

個人間でもSNSでのやりとりがコミュニケーションの主流となっており、社会のデジタル化も相まって人間の空間は現実から仮想空間へと変わりつつあります。

 

また逆説的ではありますが、国家主義の高まりという現象も個人の孤立や社会の分断を象徴しているといえます。

誰にも頼ることのできない社会の中で責任感や不安の強さに耐えかねず、自分を頼ることをやめて強い権力に身を委ねてしまうのであり、かつてドイツでナチスが成立した時もこのプロセスが働いていたといわれています。

国家主義とは決して古い時代のものではなく、むしろ民主主義や個人主義が充実した現代にこそ警戒するべきものなのです。

 

ネット社会にしても国家にしても実態のないコミュニティであり、「社会関係資本」の役割を果たせるものではありません。

この2つは現代社会のプレッシャーに耐えかねた人々の逃げ口になっていることや、少数に対して排他的であることも共通しています。

社会関係資本」となりうるコミュニティとはこのような実態がなくて排他的なものではなく、心から人とつながっていると思えてお互いに認め合えるものであるべきです。

それは当然人々が顔を合わせて気楽にコミュニケーションをとれるコミュニティであるべきで、地域社会などがその役割を果たすはずです。

地域のつながりが少なくなったといわれますが、地域社会を維持して残していくことはそういう意味で必要だといえます。

 

人々が顔を合わせる「社会関係資本」が悪い方向に働くこともあり、例えば学校でのいじめや会社でのパワハラといったことも起こりえます。

特に日本では集団や組織が重視されることで個人の尊厳や意思がふみにじられることがあり、異なる人間を排除するという方向に進むことは「社会関係資本」のデメリットであるといえます。

コミュニティは排他的なものではなく包摂的なものであるべきで、個人の自由やダイバーシティを重視したうえで成立すべきです。

 

そのようなデメリットがあるとはいえ、コミュニティとは人が生きていくうえで必要なものです。

辛いことやしんどいことがあった時に頼れる場がなければ社会のプレッシャーに潰れてしまう人も出てくるはずです。

 

またすべての人間が愛情をたっぷり注がれて育つとは限りません。

子供の時から誰かを強く憎んで育って、そのまま大人になってしまうこともあるでしょう。

そうなることを防ぐためにも、どんな人にでも自分の価値を感じられる居場所が用意されていなくてはなりません。