最近怒られたことがないという人が増えていると聞きます。
パワハラや厳しすぎる指導をなくすというのはいいことですが、そもそも注意すらできないということになっていくと、教育上大きな問題が生じます。
まずその人の成長に繋がりません。
誰も自分について注意してくれない環境にいて、成長などできるはずがありません。
それに理不尽耐性がつかないということも問題です。
社会に出るまでなら、理不尽なことを避けて怒られることもないという状態でも乗り切れるかもしれませんが、社会に出てからはそういうわけにもいきません。
理不尽のオンパレードです。
一度も怒られたことがないというままで、そんな理不尽に溢れている社会に出るのは非常に危険な気がします。
理不尽なんて味わうことのない方がいいじゃないか、という人もいるでしょう。
もちろんその通りです。
理不尽抜きの人生コースを選べるのなら間違いなくそれを選びますが、しかしそんなことはありえないのです。
嫌でも理不尽は起きてしまいます。
それをない方がいいからと目を瞑ってしまうのは、無責任な対応だといえます。
僕も世の理不尽に我慢がならず、こんな世界に生きていることすら嫌になったことがありました。
しかしだんだんそう嘆いていても世界は変わらないし、そもそも自分がそんなことがいえるほど崇高な人間なのだろうかと考えるようになっていきました。
五木寛之さんの代表作「大河の一滴」を読んだ時に、そんな自分のもやもやに答えてくれる一節を見つけました。
古代中国の屈原という政治家がいて、彼は清廉潔白な生き方をしていましたが、周囲の反発を買い讒訴されて国を追放されました。
世に絶望した彼は、滄浪という川のほとりで出会った漁師に対して、濁世を嘆く言葉を吐きかけます。
それに対して漁師は、「そのような濁世にひとり高くおのれを守って生きる以外の道は、まったくお考えにならなかったのですか」と問いかけます。
屈原は、「潔白なこの身に世俗の汚れたちりを受けるくらいなら、この水の流れに身を投じて魚の餌になるほうがましだ」と答えました。
その時に漁師が歌った歌が、今でも中国に語り継がれているそうです。
「滄浪の水が清らかに澄んだときは
自分の冠のひもを洗えばよい
もし滄浪の水が濁ったときは
自分の足でも洗えばよい」
五木さんは「名もない漁師のふてぶてしい言葉にも、この世に生きる者の、ある真実があるように思われてならない。汚れて濁った水であっても、自分の泥だらけの足を洗うには十分ではないか」と問いかけます。
さらに「大河の水は、ときに澄み、ときに濁る。いや、濁っていることのほうがふつうかもしれない。そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、はたしてどうなのか。なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。私はひそかに自分の汚れた足をさすりながら、そう考えたりするのである」と締めくくっています。
僕の話になりますが、新入社員の時に会社であまりにも理不尽な扱いを受けて憤慨したことがありました。
我慢がならず先輩にそれを愚痴ったのですが、それに対して「社会は理不尽なことだらけだからいちいち反応していたらきりがない」と諭されました。
その人はそれを言った後に、その件について対応してくれましたし、決して僕を黙らせるために言ったわけではなかったと思います。
その理不尽を放置する組織の側にも当然問題があります。
しかしだからといってすべてに憤っていてはやっていられなくなるから、冷静になって流すしかないこともあると教えてくれました。
人生は理不尽がセットでついてきます。
だからもし人生を楽しんで充実させたいと思うなら、理不尽といかに上手に付き合うかを考えないといけないのです。