クズになっても偽善者になってはならない

 

好きなタイプを聞かれたら「優しい人がいい」という人は多いでしょうし、誰だって優しい人だと思われたいはずです。

実際に「あの人は優しい」といわれる人はたくさんいます。 

 

しかし優しいと思われるのは簡単でも、実際に優しい人間でいるというのは難しいことだというのが、僕の考えです。

こういうと僕がただひねくれていて、他人に求める基準が高いように聞こえてしまうかもしれません。

しかし優しいというのは世間でいわれるほど簡単にクリアできるものではなく、もっと崇高で緊張感のあるものだと思うのです。

 

よくいわれるような優しさには、どこか違和感があります。

 

まず優しさというのは、1人の個人相手だけではなく他者に対して差別なく向けられるべきものです。

もちろん自分に悪意をもって接してくる人にまで優しくなくてもいいかもしれません。

しかしそういうケースは別として、相手を見て優しくするか決めているような人は決して優しい人とはいえません。

 

そこには自分が得したいとか気に入られたいという打算があって、「人には優しくしないといけない」という信念のもとで行動していないからです。

特定の個人にさえ優しくすれば優しい人だというのなら、上に媚びて下には厳しい人や差別主義者まで優しい人になれてしまいます。

 

また「1人では優しい人だけど集団になるとそうでなくなる」というような言われ方がよくされますが、これにも偽善的なものを感じてしまいます。

そもそも人間は集団で生きているのですから、集団の中でどう振る舞うかこそがその人間の価値になります。

だから集団になったら優しくなくなるという人は、最初から優しくない人だということです。

 

他人やもっと広くいえば社会に対しての責任が伴ってこその優しさであり、目の前の人に良い人だと思われるかどうかレベルのことは本当の優しさとはあまり関係のないことだといえます。

だからこそ「大善は非情に似たり」という言葉もあるように、本当に優しくあろうとすれば人の恨みをかうこともあるし誰かを敵にまわすこともあるでしょう。

本当に優しくあろうとすればそれだけの覚悟がいるのです。

 

逆にみんなから好かれたいとか人を従えたいとか、そういう承認欲求からきた見せかけの優しさは、その人の感情は満たせても周りには悪影響を及ぼしかねません。

 

ここまで書くとさも僕が人格者であるかのようですが、僕は自分で上で書いたほどの優しさは備えていないと自覚しています。

もちろんそういう優しさを持ちたいとは思いますが、集団で損しないように立ち振舞ってしまう時や人の視線を気にして動いてしまう時にそう感じてしまいます。

 

ただそれでも1ついえるのは、僕は優しさの基準を高いところに置いていますし、だからこそそこを満たせていない自分を自覚しています。

 

そもそも上で書いたような優しさは崇高なものですから、人生何回目かでないと達成できない域のものかもしれません。

だからそんな風になれないというのはしかたのないことなのかもしれませんが、それでも自分は優しい人間だと勘違いすることだけはあってはならないと思っています。

 

僕は「クズであってもいいが偽善者であってはならない」という考えを持っています。

クズというのは極端な言い方ですが、人間である以上卑しい部分はあるし欲望にも負けてしまうこともあります。

だからある程度そういう自分もしかたないと割り切ることも必要です。

 

しかしそこで割り切っておらず、「自分は優しくて崇高な人間だ」と勘違いしてそれを認めさせようとするのが一番ダサいことです。

自分のクズエピソードを笑い話にできるくらいのほうが一緒にいておもしろいし、素直な人なんだなと思えます。

本当の人格者なら別ですが、薄っぺらい優しさで自分を着飾るくらいなら裸になってありのままをさらすくらいのほうがいいのではないでしょうか。