3 第二段階「収容者生活」(2)
こんな絶望的な状況があるのであれば、結局人間の自由というのは環境によって規定されるもので、人間は「さまざまな制約や条件の産物でしかない」ものでしかないと諦めるしかないのでしょうか。
これにフランクルは「ほかのありようがあった」と見事に反論しています。
「感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ『わたし』を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた」
「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ」
強制収容所という絶望的な状況では、現実を無価値だと思い込み、節操を失って堕落していく人がほとんどでしたが、そうでなかった人たちには共通点がありました。
それは目的を持って毎日を暮らし、この日々も自分の成長のための試練なんだと信じていたことです。
前途に希望があることは、現在の地獄の中でも救いになります。
それは逆のこともいえます。
ある被収容者は、夢の中で5月30日に自分は解放されるというお告げを聞きました。
しかし5月になっても解放される見込みはなく、彼は5月30日に意識を失い、翌日に亡くなったのだそうです。
また収容所では、1944年のクリスマスから1945年の新年の間の週に大量の死者が出ました。
フランクルは、「多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたこと」が原因だと説明しています。
生きることに意義を見出すことがいかに大事であるかが分かります。
「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が『なぜ』存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる『どのように』にも耐えられるのだ」
4 第三段階 収容所から解放されて
フランクルは、戦争が終わって収容所から解放された人々の中で、「今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいもなく行使していいのだと履き違える」ケースがあったことを報告しています。
訳者のあとがきによると、「夜と霧」はイスラエル建国神話を支える役割を果たしたそうですが、フランクルはそれを複雑な思いで見ていたのではないか、ということです。
またフランクルは本書の中で、「ユダヤ人」という言葉を用いず、それは「一民族の悲劇ではなく、人類そのものの悲劇として、自己の体験を提示したかった」からだとも書かれています。
たしかにフランクルは最終章において、解放されて自分たちを特別と見なすようになったユダヤ人に対する警告を残しています。