人生に哲学を① 自分の価値観を持つということ

今回の記事はこのブログをどういう意図で書いているかという、根本的な内容です。

 

「自分なりの目的を持って、誰かのためになる人生を送ろう」というのが、基本的なこのブログの主張です。

難しいことのように聞こえますが、よく考えたら今の社会でも「こう生きるべき」という縛りは多くあります。

「家庭を持つべき」、「多くの収入を稼ぐべき」、「いい大学、いい会社に入るべき」、こういったものです。

 

逆に僕は、それらに対してはそうあるべきだというつもりは全くないですし、そんなものはその人の自由だと思っています。

そう思うからこそ、それらに代わってみんなが目指しやすい生き方のモデルを提示しているつもりです。

 

収入や学歴といった世間的な名誉を気にした生き方は当たり前のようになっていますが、負け組を生むことにもなりますし、よく考えたらかなりしんどいことをしています。

むしろ僕が提示している生き方のほうが、楽だし幸福感も上がると思っています。

 

誰かのために生きていると思えたら生きがいにもなりますし、他人とのつながりを感じられます。

また自分だけの目的のために生きられたら、人生を自分でコントロールできている感覚を持てるはずです。

だからこそ、「自分なりの目的を持って、誰かのためになる人生を送る」というのは、幸福感につながる生き方だと思うのです。

 

それでも自分なりの価値観や哲学みたいなものを持つのはめんどくさいし、そんなものが必要なのかという考えの人もいると思います。

 

ここで紹介したいのが、第二次大戦時のナチス・ドイツアイヒマンという人物についてです。

彼はヒトラーの命令に忠実に従い、ユダヤ人の虐殺を淡々とこなしました。

 

戦後アイヒマンに対する裁判が行われた際、人々はどんな極悪人が出てくるのかと想像していたら、意外にも出てきたのは平凡な人物でした。

アイヒマンはただ自分が求められていることを実行した、ある意味真面目な人間だったのです。

そうであるがために、彼はユダヤ人虐殺という歴史的犯罪を推し進めることになりました。

 

アイヒマンに限らず、当時のドイツ国民はヒトラーがどういう人間で何をもたらすかを深く考えずに、彼を選挙で指導者に選びました。

自分の価値観ではなく、世間の流れ、意見に従うというのは、極端な場合にはこういう結果を引き起こすのです。

 

それはドイツの場合だけではありません。

同じ時代の日本も同じことです。 

 

僕は大学時代に日本がどういう流れで戦争に向かっていったのかについて学びましたが、なんて愚かな時代だったのだろうと思わざるをえませんでした。

たまにあの時代を正当化して、日本のかつての戦争を悪くいうのを反日だという人がいますが、そういう人はあの時代の日本のどこをそこまで誇りに思えるのか分かりません。

むしろ僕は日本という国は大好きですし、そうだからこそあの時代の異常さには唖然としてしまうのです。

 

政治学者の丸山眞男が「無責任の体系」という言葉で表現したように、当時の日本には責任の所在がありませんでした。

軍部、政治家、メディアがそれぞれ国家、社会のためではなく、自分の組織、あるいは保身のために動きました。

その結果日本は泥沼の侵略戦争を開始し、国民は熱狂してそれを支持しました。

 

話が脱線したようですが、このように自分の芯となる価値観、哲学がないと社会が良くない方向に流れていてもそれに気づかないことになります。

他人軸や世間の名声よりも、自分の目的や社会のためになる生き方をとるべきだと考えるのはこのためです。