【名著紹介】愛するということ エーリッヒ・フロム 鈴木晶訳 紀伊國屋書店①

エーリッヒ・フロムは20世紀の社会心理学者であり、ファシズム服従していった人々の心理の研究から、大衆が画一化して責任から逃れることに警鐘を鳴らしました。

「愛するということ」はフロムがそのような視点から人間の愛について語った名作であり、恋愛論のようなものとは少し異なります。

 

1 愛は技術である

 

フロムによれば現代の人々は愛について深く興味は持っているものの、正確に理解していません。

愛は技術であって努力次第で習得が可能であるにも関わらず、人々は愛を経験できるかは運の問題であると勘違いしています。

そのような勘違いが生まれるのは、人々が3つの間違った前提にとらわれているからです。

 

1つ目は、人々が愛することよりも愛されることに重きを置いているということです。

巷では、どうすれば自分を魅力的に見せることができるかというテクニック論があふれかえっています。

また多くの人は愛されるために、必死になって社会的成功、富、権力を追い求めます。

 

2つ目は、愛の問題を能力の問題ではなく、対象の問題だと思い込んでいることです。

かつて結婚は自発的に行うのではなく、仲介者によって取り決められるものであったため、愛は結婚してから自分たちの努力で生んでいくしかないというのが人々の認識でした。

 

しかし自由に恋愛ができるようになった現代では、愛を育むことよりも自分に見合った相手を見つけ出すことの方が重要になったのです。

 

さらに人々が恋愛や結婚の相手を選ぶ際の思考は、商品を購入する際のそれに似ています。

自分自身の価値と交換可能な相手の中から、フロムの言葉を借りれば「お買い得品」な相手を探し出すのです。

フロムは「何もかもが商品化され、物質的成功がとくに価値をもつような社会では、人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換のパターンに従っていたとしても、驚くにはあたらない」と、現代社会が人々の恋愛観にもたらした影響を分析しています。

 

3つ目は、「恋に落ちている」状態が持続的な愛と混同して認識されていることです。

2人が性的に引きつけ合っている、互いに夢中になっている状態というのは実は長続きするものではなく、孤独している者同士が依存しあっているというだけのことにすぎないのです。

 

2 成熟された愛

 

人間の最大の欲求は「孤立」という状態から脱け出すことです。

現代人は孤独を避けて他人と結合するためにあらゆることをしますが、それによって本当の意味での一体感を得ているとは言いがたいといえます。

 

資本主義社会では人々は知らず知らずのうちに、集団に同調していきます。

そして「平等」という名のもとに人々は個性を失い標準化されていきますが、そのようにして得た一体感では孤立感を癒やすことはできません。

 

資本主義社会は集団への同調のみならず、仕事や娯楽が型通りのものになるという現象をもたらしました。

型にはまった活動をしていくうちに、人間は自分という存在の尊厳、日々の充実感を持てなくなっていきます。

創造的活動は世界との一体感を得る効果がありますが、残念ながら自主性を欠く現代の労働の仕組みではそれは得られません。

 

ではどうすれば他の人間との一体感を得られるかといえば、その答えこそが愛ということになります。

しかし、愛といっても成熟された愛でなくてはそれは得られません。

 

未成熟な愛とは、マゾヒズムサディズムに代表されるような相手がいないと生きていられないというような依存的な関係です。

 

一方で成熟された愛とは「自分の全体性と個性を保ったままでの結合」です。

「愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、2人が1人になり、しかも2人でありつづけるという、パラドックスが起きる」というフロム自身の説明が、最も分かりやすいと思います。

 

愛は受動的であってはならず、能動的な活動からしか生まれません。

そしてその能動的な活動とは、言い換えれば「与える」ということです。

 

この「与える」という行為には、自己犠牲や見返りを求めるというような目的はありません。

「与える」ことによって他人を豊かにすることに喜びを感じ、結果として相手に与えたものが自分にも返ってきて、お互いに高め合うことができるのです。

 

このような愛し方ができるようになるには、その人自身の性格が発達している必要があります。

依存心やナルシシズムを克服したうえで自分の力を信じて頼ることができてこそ、自分自身を相手に与えることができるのです。

愛が技術であって、努力次第で習得可能であるというのはそういう意味です。

 

3 愛の4つの要素

 

愛には与えるということ以外に4つの要素があります。

それは、配慮、責任、尊重、知の4つです。

この4つは互いに関連していなければならず、例えば責任に尊重が欠けてしまうと支配や所有へと陥る恐れがあります。

あくまで愛とは支配ではなく、自由によって成立するものです。

 

この4つの要素を満たすうえで必要なのが、「相手を知る」ということです。

他人の秘密を知りたいというのは人間の基本的な欲求ですが、それは思考によっては決して満たされることはありません。

人の心理とは難しいもので、相手について考えれば考えるほど余計に分からなくなっていくのが普通です。

 

相手の秘密を知るために、ときに人は暴力や支配という手段を選びます。

相手を自分に従わせて秘密を白状させ、さらに自分と同じような考えしか持てないようにしてしまうのです。

もちろんそのようなことをしても何も知ることはできません。

 

相手について知る唯一の手段は、愛の行為によるものです。

知るといっても考えて理解するというような次元のものではなく、言葉や思考を超越した結合によって知るのです。

相手を知りたいという欲求を満たすことができるのは、愛という手段しかないということです。

 

4 愛の対象

 

愛とは特定の相手にだけ向けられるものではなく、世界全体の人間へと向けられるべきものです。

しかし人々は愛とは対象の問題であって、特定の1人にだけ愛を向けることに意義があると勘違いしています。

「この態度はちょうど、絵を描きたいと思っているくせに、絵を描く技術を習おうともせず、正しい対象が見つかるまで待っていればいいのだ、ひとたび見つかればみごとに描いてやる、と言い張るようなものだ。1人の人をほんとうに愛するとは、すべての人を愛することであり、世界を愛し、生命を愛することである」とフロムは述べています。

 

そのため人を愛することができる人間は、無力な者やよそ者、自分の役に立たない者にでも愛を向けることができます。

 

また自分の子供が小さい時は愛情を注げることのできる母親が、子供の成長につれて支配的になっていくということはよく起こりうることです。

しかし、人類全体を愛することができて与えることに喜びを感じられる女性は、そのような母親にはなりません。

 

さらに愛の対象に例外があってはならないのだとしたら、自分のことも愛せないといけません。

他人を愛することと自分を愛することは決して矛盾することではなく、むしろ不可分の関係にあります。

自分だって1人の人間であり、人間全員を愛するべきだというのなら自分のことも愛することができるはずです。

 

注意しなければなりませんが、自己愛と利己主義とは同じものではなく、むしろ正反対のものです。

利己主義とは本当は自分を愛しているのではなく、自分のことを憎んでいる状態をいいます。

自分を愛することができていないがために、自分を本来よりもよく見せようとごまかすしかないのです。

「利己的な人は他人を愛することができないが、同時に、自分自身を愛することもできない」のです。

 

「非利己主義」にもまた注意が必要です。

「非利己主義」は自分自身を重視していないという態度ですが、そこには自己中心主義が隠れています。

例えば「非利己的」な母親の、子供に対する態度がその例です。

子供のためだといいながらその母親は、子供が自分の期待通りに振る舞ってくれることを望んでいるのです。