【名著紹介】孫子 浅野裕一 講談社学術文庫②

 

4 理想の将軍

 

このように実際の戦闘とは複雑であり、全てがこちらの作戦通りにいくとは限りません。

将軍はそれを認識しているべきであり、兵の戦意が下がることや状況が優勢から劣勢に変わることへの可能性を常に頭に置いておかなければなりません。

「とかく人間は、いったん確保した有利さはいつまでも永続すると思い込みたがり、それを不動の基盤に据えて前進したがる。だが、手に入れたものは常に失われる可能性を持つ。相手がある場合、放っておいても持続する有利さなどは、ほとんど存在しないと覚悟すべき」だということです。

 

また将軍は目先の利害にだけとらわれてはならず、あらゆる物事に利益と害悪の両面があることを認識しておくべきです。

利益の面にしか気づかなければ、隠れていた害悪の面に足をすくわれてしまいます。

反対に害悪の面ばかり考えていては、消極的になって事態を前進させることにつながりません。

 

この目先の利害にだけとらわれてしまうというのは人の常であって、それを利用することで相手を自分の思い通りに動かすことができると孫子は述べています。

例えば相手が自国に不利な事業をしようとしていてやめさせたい場合には、その害悪ばかりを並び立てることで臆病な気持ちを起こさせます。

逆に相手の国力が消耗するような事業をさせるようにもっていくには、その事業の魅力ばかりを並びたてればよいのです。

 

孫子によれば優秀な将軍というのは、バランスよくあらゆる性格を併せ持っています。

勇気があっても思慮に欠けていては戦死してしまいますし、逆に頭が良くても勇気がなければ捕虜にされ、いずれにせよ勝利は手にできません。

なので将軍とは1人の人間の中に、いくつもの矛盾した性質を兼ね備えているべきなのです。

 

将軍の性格は勝敗に大いに関わることであり、将軍が優柔不断で威厳に欠けるようではいけません。

将軍には兵士に適確な指示を出せるだけの理性や知性も必要ですが、同時にその存在感と言葉で全員の心を掴んでしまうような性格的迫力もなくては、いざという時に軍を動かすことはできません。

「叡智と蛮勇とが一個の人間の中にうまく同居したとき、そこに優れた指揮官が誕生する」のです。

 

5 兵士との関わり方

 

将軍は兵士に対して、親が赤ん坊に接するように可愛がってあげるべきです。

しかし可愛がるだけでは統制することはできないので、ときには厳しさも必要になります。

 

また将軍は内心を簡単に悟られてはならず、感情はできる限り表に出してはなりません。

兵士たちの戦意を高めるためには、状況に応じて将軍は自分の意図、さらには事実さえも隠しておく必要があります。

 

例えば軍勢を敵の領内の奥深くまで進軍させて決戦を挑む場合、当初はその危険な状況を兵士に知らせてはなりません。

そしていざ決戦という段階になれば、生き延びるには全力で戦うしかないと告げてやる気を起こさせます。

「全軍の兵士たちを思い通りに働かせるには、ただ仕事だけを指令して、その理由を説明してはならない。全軍の兵士たちを意のままに使役するには、ただ不利な状況だけを周知させて、その陰に潜む利益の面を教えてはならない。兵士たちは彼らを滅亡必至の窮地に放り込んだのちに、はじめて命をながらえるのであり、彼らを死ぬほかない窮地につき落としたのちに、はじめて生き延びるのである。いったい兵士たちは、とてつもない危険にはまり込んだのちに、ようやく敗れかぶれの奮戦をするものである」と孫子は説明しています。

 

6 現実主義による平和

 

孫子の思想の特徴は、その徹底した現実主義にあります。

それとともに「軽はずみに戦争を始めて敗北すれば、滅んでしまった国家は決して再興できず、死んでいった者たちも二度と生き返らせることはできない」という平和主義、人道主義が潜んでいます。

この現実主義と平和主義が併存しているところに、孫子の思想の大きな価値があります。

 

「軍事力の使用に極めて慎重な態度を守りながら、しかも単にかけ声倒れに終わる理想主義を戒める現実主義こそ、孫子学派の思想的立場」であり、孫子からすれば軍事力は天下に平和をもたらすためにのみ必要なものでした。

 

孫子は将軍に対して敵を罠にはめる悪質さを求めながらも、同時に国家や民衆のために尽くす誠実さを求めており、この一見矛盾するような2つの性質の重要性を述べているところに孫子の魅力があります。

「私利私欲から策謀をめぐらす者は、欲望に目が曇り、ついには計謀も破綻する。明鏡止水の心境で、事の成らんことのみを謀る者は、自己滅却と引き換えに事業の成功を得る。孫子は将軍に対し、純粋な策謀家たれと教えているのである」という説明に、孫子の主張のエッセンスが詰まっています。

 

7 孫子の再評価

 

孫子の思想には古代中国のものでありながら古さを感じさせない普遍的な真理があり、20世紀になってからその重要性が注目されるようになりました。

 

そのきっかけとなったのは、2度の世界大戦です。

近代以降の軍事力の強大化に伴い、敵兵力を殲滅させることを戦争の目的とする思想が主流となって、クラウゼウィッツの「戦争論」をはじめとした戦争を軍事力の正面衝突としてのみ捉える傾向が生まれました。

それによって多くの悲劇が生まれたことで、少ない犠牲で勝利を収めるべきだとする孫子の思想が再評価されることになったのです。

 

それは日本も例外ではありません。

アジア太平洋戦争において日本軍は精神主義に頼った直接的戦闘を好み、多くの犠牲を払って大敗北を喫しました。

当時の日本軍が導入していたのは、敵軍の殲滅を重視するプロシア兵学でした。

 

また日本では孫子のいうような間接的戦略を武士道に背くものだとする傾向がありました。

そのためプロシア兵学には日本人の倫理観との親和性があったといえます。

戦争の悲劇を経験した日本人こそ、孫子の思想を学び直す必要があります。