人の居場所がなくてはならない② コミュニティには希望がある

コミュニティはこのまま廃れていって僕達は孤独になっていくしかないのでしょうか。

それでも希望はある、と僕は考えています。

なぜかといえば人間は本能的に誰かと関わりながら生きていきたい生き物だからです。

 

例えばコロナ禍になってから日本も大きくデジタル社会へと移行して、リモートが主流になりました。

自粛期間がかなり長引きましたが、やがて人々は耐えられなくなって外出し始め、今では前のように大勢で出会えるようになりました。

デジタル化が進むなかでメタバースのような仮想空間までできて現実の出会いが蔑ろにされていくという危機感もありますが、仮にしばらくそういった世界が主流になったとしても、やがて人々は同じように現実世界に帰ってくるのではないかと思われます。

 

デジタル化や仮想空間が全くの悪だというのではありません。

効率よく社会を回すために、そういったものが必要な局面もあるのは理解しています。

しかし人間は新しく便利なテクノロジーを手にすると、際限なくそちらの方向へ世の中を進めようとしてしまいます。

古いものと照らし合わせながら良し悪しを考えて、慎重に時代を進めていく姿勢も必要だと思うのです。

その時に人間はこれまで存在していた現実世界のコミュニティの必要性を理解しているからこそ、簡単にそれを捨てることはしないでしょうし、捨てることがあってはなりません。

 

コロナ禍からのデジタル化の進行というのは、人類史の中でも大変化のひとつでしょう。

それはたしかにコミュニティの危機といえるかもしれませんが、見方を変えればコミュニティを取り戻すチャンスかもしれません。

人々は現実世界と離れた空間を経験するからこそ、現実世界の価値を再認識するということが起こりうるからです。

もちろんそのためにはコミュニティを構築する努力も欠かせません。

仮想空間をデジタルの世界で広げるという流れだけでなく、同時に現実空間の整備もこれまで通り進めていかなければなりません。

 

僕は自分の経験からも、人間は誰かと関わりながら生きていきたい生き物なのだと確信しています。

僕もかつて他人と距離をおいて無関心になっていた時期がありました。

その時は自分はそういうドライな人間なんだと思っていましたが、やがて誰からも理解してもらえないもどかしさを感じるようになっていきました。

まるでこの世界に自分一人しか存在していないかのような感覚に陥り、それが寂しくてしかたなかったのです。

この時に気づいたのですが、僕は決して他人に無関心だったわけではなく、そう自分に言い聞かせることで傷つかないようにしていただけでした。

他人に無関心でさえいれば誰かに嫌われたり怒られたりしても心が痛むこともなく、気が楽だったのです。

 

それまで僕は、人に心を開かずに無関心なスタンスをとっていました。

しかしそれに気づいてから、人と関わっていくことの価値を理解できました。

今では人と関わることこそ人生だと思っています。

たしかに人と関わると裏切られることもあるし、それで人付き合いが嫌になってしまうことだってあるかもしれません。

僕にもそういう時期がありました。

しかしその僕も違う場所で人と関わるなかで全く反対の価値観を手に入れることができましたし、そう導いてくれるのも結局は人との関わりだということです。

 

もし今の人間関係が嫌で人付き合いが億劫になったという人がいれば、その人間関係から逃げるのは全然かまわないことだと思います。

しかしその時にネットなど仮想空間に逃げるのではなくて、がんばって別のコミュニティへと移る勇気を持ってほしいと思います。

前のコミュニティでは受け入れられなくても、次では居場所を得て明るく振る舞うことができたなんていうのはよくあることです。

少なくとも自分と現実世界の他人を遮断してしまうのでは、問題はいい方向には進みません。

 

とはいえそれは勇気のいることであり、だからこそ人が居場所を感じられるコミュニティが地域社会により多く用意されていることが、個人の孤独を防ぐことにつながります。

人間が本能でそれを求めているからこそ、実現は可能だと信じています。

他者と関わったり対話することで人は成長していくのであり、競争して足を引っ張り合ったりバーチャルで顔を合わせずにつながっているだけが他者ではありません。