アカデミックであるために

アカデミックとは学究的という意味で、学問で合理的に真理を見つけ出そうという態度です。

このブログも当然アカデミックなものを目指しています。

 

とはいいつつ本当にアカデミックになりたければ、ブログなどネット上のものよりも本を読むべきです。

そう書いておいて、ブログで情報を発信しているのは矛盾しているかもしれません。

しかしここでは学問的な話は全てちゃんとした本を読んだうえで発信しているので、そこは大目に見ていただければと思います。

 

本であればなんでもいいかといえばそうでもありません。

 

たまにちゃんとした研究者でない人が書いた、論理性もなく偏見に染められたような本もあります。

どんな意見でも認められるべきといわれるかもしれませんが、偏見で誰かを攻撃するような意見や、明らかに事実と異なるものを学術的な主張と認めるべきではありません。

これを見分けるのは難しいかもしれませんが、どうしても分からない場合は、学術書であれば岩波新書中公新書の本をおすすめします。

 

本はできればいろんなジャンルのテーマに挑んだほうが、より奥行きのある理解ができるようになります。

学問では一見全く関係のないテーマが意外なところでつながることがあって、総合的な理解ができたほうが方がおもしろくなります。

 

また同じテーマだとしても、違う主張のものも読んでみる方が客観的にその問題のことが見えてきます。

それをしているとやがてそれについての通説と、それ以外の説が体系的に見えてきます。

僕もそこまで1つのテーマを究めることはあまりないですが、大学のゼミで卒論を書いた時などは、そこまで説明できるまでいろいろ読んでから書き上げました。

 

ではちゃんとした本を読んだとして、他にアカデミックであるためには、どういう姿勢が必要なのでしょうか。

まず学問というのは、物事に対してきれいごと抜きで現実的にアプローチするということが求められます。

 

例えば「戦争をどうやってなくすか」という問題を考える時に、「被害者が可哀想だ」とか「そんな酷いことをしないでほしい」などといっても結果は変わりません。

もちろんそういう感想を持つことから始まるのですが、大事なのはどういう理由で戦争が起きて、なくすためにはどうすればいいかを現実的に考えることです。

問題がなくなることを祈ったところで現状は変わらないわけで、現実的に解決に向けてアプローチすることだけを考えるのが学問だと思っています。

 

さらに学問でより良い答えを導きたいと思えば、対話ができる環境が必要不可欠です。

 

しかし最近になって意見を交わす場は、現実よりもネット空間に移っているように思えてなりません。

顔の見えない人どうしの話し合いはどうしても暴力的、排他的になってしまいます。

 

それにネットはもともと自分と近い意見しか表示されないような作りになっていて、そもそもが多様な価値観に触れにくいようにできています。

現実世界で、名も無い人や少数意見の人であっても自分の意見が言える環境が整っていないと、民主主義や表現の自由が機能しなくなります。

 

忘れてはならないのは、対話の目的とはあくまで正解を求めることであって相手を言い負かすことではありません。

 

かつて古代ギリシアではソフィストという人たちが、市民に対して弁論術を教えていました。

彼らの目的は議論に勝つことであり、そのためには詭弁に陥ろうが問題ありませんでした。

 

そんなソフィストたちに対して真理を求めるための対話を挑んだのが、有名なソクラテスです。

ソクラテスは正しいことは何かを問うための対話を続け、それにより敵を作って最期は死刑になりました。

 

これは大昔のギリシアのことですが、今の日本を見ても似たような現象が起きています。

相手を打ち負かすような弁論やパフォーマンスが上手い人に人気が集まって、その人の主張が正しいかどうかはあまり考えられていません。

そして人気を集めた意見が正義となり、そうでない少数意見は無条件に悪とされるという恐ろしい事態が起こりかねない状況です。

難しいことを考えるのはめんどくさいと思って耳障りのいいことしか言わない人についていったら、どんな目に合うか分かりません。

 

そしてそういう状況ではソクラテスのような人は笑われて嫌われますが、彼のように正しさにこだわる人物が現れないといつか本当に対話が成り立たない社会になってしまいます。