デジタル化がもたらす未来

AIによって人間の能力が代替され、人間が職を奪われるという懸念は近年よく語られるところです。
AI時代にも生き残る職業の一覧も発表されていますが、未来のことは誰にも予測できません。
とはいえ人間にあってAIにはない能力があるということは確かであり、AIに負けないためには人間はその部分を磨くべきだといえます。

 

その能力の1つに、「意味を理解する」ということがあります。

AIは無限のデータを整理して正解を導き出すということができますが、その一つずつに内包されている深い意味まで理解できないのです。


例えば差別的な発言に対して、人間であれば「これには発言者のバイアスがかかっている」ということが分かりますが、AIはそれをただのデータとして処理し、事実かどうか疑うということをしません。

つまり人間がAIに代替されないためには、意味を理解する能力を発揮していくべきということです。


しかし最近の学生は読解力が低下しており、AIに対して優位であったはずのその部分でさえ危ういという問題があります。


それについて実験やデータを用いて説明しているのが、新井紀子さんの「AI vs 教科書が読めない子どもたち」という本で、詳しいことはこれを読んでいただけたらと思います。
現在英語やプログラミングといったものが、これからの時代に必要な教育として推進されています。
しかしそれ以前に読解力という基礎的な部分をしっかりしないと、人間はどうしようもないというのがこの本の結論です。

 

デジタル化に伴ってメタバースをはじめ仮想空間の存在が強くなってきましたが、それがリアルな共同体を崩壊させて人間を孤独に追いやるのではないかともいわれています。
これもAIによる人間の失業とともに、デジタル化において防がないといけない事態の一つです。

 

ネット社会ではいいね数や閲覧数で人の価値が評価されますが、それは目立たない人間、敗者を生み出す結果にも繋がります。
そのことについて警鐘を鳴らしている、西垣通さんの「超デジタル社会」から引用します。
「(日本では)自分の価値がないと思いこみ、自信や意欲を失ってしまう人はすでに増えつつあるのだ。たとえ学歴や収入が低くても、昔ながらの小さな共同体のなかで尊敬され、具体的な目標をもっていれば、そんな事態にはならないだろうに」

 

さらに同書では、匿名での発言ができるネット社会では、容易にヘイトスピーチなどの他者への攻撃が生まれてしまうことにも問題提起しています。
顔が見えない者どうしの集まるネット社会という共同体は、リアルな共同体とは異質なものであり、そこでは顔が見えないからこそ無責任な言動がとれてしまうのです。


これについても同書から引用します。
「自分は安全地帯にいて、責任もとらず、相手を勝手に罵倒するのが表現の自由ではない。日本の伝統的共同体の道徳では、そんなことをする人物は卑怯者として軽蔑された。だが、共同体の残骸のかたわらで怨念をかかえた孤独な人々は、匿名でポピュリズムに走り、既成エリートを攻撃する独裁的リーダーをかつぎあげ、排外的ヘイトスピーチで溜飲を下げたくなるのではないか」

 

もちろんデジタル化によって社会は効率化されるはずですし、その進歩を否定する気はありません。
しかし何かを変えようというときに、これまであった全てを壊せばよくなるという考え方は暴力的であり、必ず大きな矛盾をはらみます。
変化とは慎重に起こすべきですし、従来の良かった部分は残してそこの均衡を保ちながら進めるべきです。


特にデジタル化というのは人類史のなかでも特筆されるであろう大変革であり、だからこそどういう問題があるかに注意を払うことがより求められます。