こだわりを持つということ

こだわりがある方がいいか、ない方がいいかというのは結構難しくて、「あの人はこだわりがない」というのも、「あの人はこだわりが強い」というのもどちらも悪く聞こえます。

 

思うに、こだわりというのはあったほうがいいけど、ありすぎないほうがいいものだというのが結論です。

 

大量生産、大量消費の現代社会はいろんなことにこだわりを持てます。

いい車を持ちたい、いい服を着たいなどです。

またスマホ1つあればさまざまなサービスを受けることができます。

 

そういう時代だからこそ、いろんなものにこだわって生きればいいと思うかもしれません。

しかしたとえ人生における時間の使い方の選択肢が増えたとしても、時間そのものが増えたわけではありません。

昔に比べて寿命は延びましたが、1日24時間というのは変わらないのです。

それに商品やサービスを利用するのはお金もかかります。

 

さらに今はSNSで他人の動向をチェックすることもでき、そういうのを見ていると自分の生活は何か物足りないんじゃないかという気になってきてしまいます。

いわば社会そのものが、人の承認欲求を刺激して消費に走らせるというシステムで構成されているわけです。

 

だから時間やお金といったコストをどこにかけるかというのを考えた時に、自分にとって有意義なものに絞るという発想もあっていいと思います。

 

昔であればそれほど選択肢もないし、今に比べて情報も遮断されていました。

だから毎日が同じようなリズムで刺激がなかったといえばそれまでですが、「もっとこんなことができる、こんなものが欲しい」という焦燥感に駆られることはなかったはずです。

 

この焦燥感の正体は、承認欲求や他人との比較だと思います。

「あの人に比べると自分は」という、考えてもどうしようもない考えが堂々巡りしているのです。

そのような感情は永遠に満たされることがありません。

 

逆に自分の人生の目的、意義を考えてそこから逆算して必要なことをするという発想ならば、自分の中でしっかりゴールが見えているから変に焦燥感に襲われることはないはずです。

 

かつて日露戦争で騎兵隊を率いてロシアのコサック騎兵を破った秋山好古という人の言葉に「男子は生涯一事を成せば足る」という言葉があって、僕はこの言葉を意識して生活しています。

人間一生の中でそんなにいろんなことができるわけじゃありません。

ならば自分がやり遂げるべきことを絞ってそれに集中したほうが、結局満足のいく結果を得られると思います。

 

僕はもともと地域活性化という人生の目的を見つけてそこから仕事を選びましたが、今はそこから派生、追加されて、人生で3つのことを成し遂げられればそれでよいという考えに至りました。

まずは仕事面で、今の会社で実力を持って業界そのものを動かしたいということです。

次に趣味ですが、このブログをはじめネット上でできるだけ有意義なものを書いて、多くの人に読んでもらうということです。

最後は平凡ですが、生活面で家庭を持つということです。

 

一事を成せばといいながら三事成そうとしていますが、できるだけ人生は単純化したほうがいいというのが僕のポリシーです。

とはいえストレス発散は大事ですし、関係のないこともするべきであることは否定しません。

それが悪いというわけでは決してありませんが、1つ確実にいえるのは、他人との比較をしないほうが上手いこと自分の幸福感をコントロールできるということです。

 

 

 

 

【歴史】渋沢栄一の思想と生涯② 現代にこそ学ぶ意味

4官から民へ

 

帰国した栄一は、慶喜が謹慎していた静岡藩で働くことになりました。
ここで栄一は「商法会所」を設置し、パリで得た知識を活かして静岡藩の経済のために尽くします。
諸説ありますが、この商法会所は日本で初めての株式会社ともいわれています。

 

1869年、栄一の評判を聞いた大隈重信の説得により、栄一は新政府の大蔵省に出仕することになりました。
栄一はさまざまな改革を行う改正掛を設置してその掛長も兼任し、日本の近代化に大きく貢献します。


この時に度量衡、租税制度の改正、太陽暦の採用、金融制度、郵便制度の整備、銀行の創設、鉄道施設、官庁建築などを手がけました。他にも中央主権国家になるために不可欠であった廃藩置県や、生糸の大量生産を可能にするための富岡製糸場の創設にも関わりました。

 

しかし財政の規律を重んじる栄一は、軍備増強を進める大久保利通と対立したことで大蔵省を辞任し、役人ではなく民間の立場から社会を発展させることを決意します。
日本の近代化のためには民間業の発展が欠かせないというのが栄一の信念でしたが、周囲からは理解されずに反対を受けました。
江戸から明治に変わったとはいえ、商売を卑しいものとする考えは根強く残っており、政府での地位を捨てて民間へと転身するというのは当時の常識では考えられないことでした。

 

5合本主義

 

実業界の実力者として、栄一は次々と株式会社の創設に関わりました。
その分野は銀行、ガス、電力、鉄道、海運、保険、製紙、食品、化学など多岐にわたり、それらの基盤を整備していきます。
後述しますが栄一はこれと同時にいくつもの社会事業にも関わっており、それだけの功績を1人の人間がやったというのは驚かざるをえません。

 

こうして日本に資本主義が根付いていくのですが、栄一自身は資本主義という言葉を使うことはなく、「合本主義」という言葉を使いました。
この「合本主義」という言葉のニュアンスを理解すれば、彼が単純に資本主義を始めたというだけでは評価しきれないことが分かります。

 

栄一は誰もが認める実力者でありながら、自分の財閥を築くことはありませんでした。
多様性を重視し、豊富な人脈の中から適材適所に経営者を選び、そのうえで出資しました。
そして株主総会などの場では、中立の立場から利害の反する者同士の調整、仲介に努めます。
あくまで熟議を重視し、できる限り誰しもが納得できる結論を導き出すべきだというのが彼の信念でした。


栄一はトップの立場から日本経済を引っ張っていったというよりも、裏方として日本経済が上手く回るようにサポートしていたという方が適切だと思われます。
ちなみに栄一と並ぶ実業家である岩崎弥太郎は、独占によって強いリーダーシップで経済を牽引するべきだという考えを持っており、その思想の違いで栄一と対立しました。

 

栄一の主張として知られるのが「道徳経済合一説」というもので、「論語と算盤」という言い方もしています。
「算盤」はいわば商売、経済を象徴する言葉で、「論語」というのは道徳、正しく生きることを象徴した言葉であり、経済活動をするうえではこの2つがどちらもなくてはならないという意味です。
金儲けが卑しいものとされた時代にあって、お金を儲けないことには現実に何かを成し遂げることができないということを栄一は主張します。


しかし金儲けはあくまで公益を実現するための手段であり、そればかりに専念してはならないとも説きました。
栄一の活躍もあって日本経済は大いに発展しましたが、それに伴い道徳が廃れていたことを彼は心配して警鐘を鳴らしたのです。


これは経済成長と持続可能性の調和が叫ばれる現代において、教訓とすべき考えだと思います。
だからこそ渋沢栄一の考えや生き方が、今になって注目されているのです。

 

6 公益の追求

 

日本に資本主義を起こした栄一は、その時期から資本主義の発展によって生じる矛盾を認識したうえでその解決策を模索して手を打とうとしました。


例えば競争社会で生じる格差、貧困を自己責任として放置することなく、政府が解決すべき問題だという認識を持っていました。
栄一は生活困窮者を保護する目的で、福祉施設の「東京養育院」を創設し、生涯その運営に関わり続けました。
そして月に1回は訪問し、子供たちをはじめ入院者と面談していたといいます。
生活困窮者のために公金を使うべきではないという反対論が強い中でも、栄一は議会で格差をなくすことの必要性を訴え続け、養育院を守りました。

 

福祉の問題だけでなく、栄一はさまざまな社会問題に危機感を持ち、数多くの社会事業に関わり続けました。
その分野は、女子教育の普及など教育に関すること、労働問題、宗教の対立、医療など多岐にわたります。


また1923年に関東大震災が発生した際には、83歳だった栄一は被災者の救済や東京の復興に尽力しました。


栄一にとっての最優先事項は「公益」を実現することであり、そしてその「公益」とは国家の利益、生産性というような意味合いだけではなく、社会にいる全ての人々の幸福でなければならなかったのです。

 

そのような「公益」を求める栄一にとっては、競争は独占よりも好ましいものでしたが、とはいえ過度な競争は社会に悪影響をもたらすものだという認識を持っていました。

そのため民間企業の価値を高く評価してその普及に努めながらも、全てを民営化するべきだとは主張せず、政府が産業を保護することの必要性も理解していました。


また栄一は国際貿易についても、当初は自由貿易主義者でしたが、輸入される外国の製品から日本の産業を守るために保護貿易が必要だと考えを変えるようになりました。
この辺りに栄一へのサン・シモン主義の影響が見られます。

 

栄一が競争社会に対して抱いていた問題意識は、どれにしても現代にも通ずるものであることが分かります。
彼の評価されるべき点は、資本主義を始めたこと以上に、その限界を知ったうえで対処していたことなのではないでしょうか。

 

7民間外交

 

1909年、数多くの役職を兼任していた栄一は、そのほとんどを辞退します。
それ以降栄一は民間外交に専念し、日米関係、日中関係の改善に尽力しました。


当時アメリカでは反日感情が高まっており、日本人移民の排斥が問題になっていました。
ルーズベルト大統領とも親交のあった栄一はアメリカでもよく知られた存在で、日米関係の修復のためにアメリカの各都市を回って講演を行います。


また日米お互いの児童に親日感情、親米感情が芽生えるよう、アメリカの児童から日本の児童に「親善人形」を贈りたいという、アメリカの「世界児童親善会」からの提案を栄一は受け入れました。
アメリカの各地で人形送り出しの式典が行われ、日本でも歓迎会が盛大に行われて栄一も参加しています。
日本からも返礼の人形が贈られ、人形の交換というかたちでの文化交流は親日感情、親米感情の高まりにつながる結果になりました。

 

栄一は日米関係だけでなく、日中関係の改善にも取り組みました。
1913年、来日していた孫文と会談した栄一は、孫文に実業家になることを勧めたうえで、日中合弁会社の設立を提案しました。
翌年栄一が中国に訪れて袁世凱と会談した際に、その構想は「中日実業株式会社」として実現しました。

さらに中国で飢饉や水害が起こった際には、財界から義援金を集めて物資を送っています。


これらの民間外交の功績から、栄一はノーベル平和賞の候補にまでなりました。

 

国際協調主義者であった栄一は、国内の帝国主義的野心を露わにしていた軍部や政界と衝突することも多々ありました。
例えば日米中の協調を目指す栄一は、満州の鉄道を日米で共同経営することを主張しますが、強い反対にあって日本が単独で経営することが決まりました。
満州の権益をきっかけに日本が戦争に突入したことを考えれば、栄一の主張には十分な価値があったことが分かります。


また第一次世界大戦のさなかに日本が中国に突きつけた「二十一ヶ条の要求」や、シベリア出兵などの日本の侵略行為には強く反対しました。

 

しかし栄一は朝鮮半島や中国へと経済進出をしており、その行為は進出先の近代化やインフラの整備に貢献したとはいえ、軍部のアジアへの侵略路線との親和性があったことも否定できません。
特に朝鮮半島に対しては、安全保障上の観点から日本の影響下に置きたいという意識があったことは確かであり、栄一が全く帝国主義とは無縁の人物だったとはいえないと思います。

 

とはいえ日清日露戦争以後、日本人が戦争、領土の拡大に熱狂していくなかで、あくまで協調外交路線を貫いたことは事実です。
しかし皮肉にも、栄一が亡くなったのと同じ年の1931年に満州事変が勃発して日本は中国、アメリカとの戦争へと向かっていきます。
軍部が実権を握って国民の自由が制限され、栄一が憎んでいた「官尊民卑」の時代が再び到来するのです。

 

【歴史】渋沢栄一の思想と生涯① 日本の資本主義はいかに始まったか

新一万円札の顔に決まった渋沢栄一は、2021年に大河ドラマで取り上げられたこともあり注目を集めています。


銀行をはじめ約500の株式会社の設立に携わり、「日本資本主義の父」といわれる栄一ですが、その名称では彼の生涯を表現しきれていないように感じます。
栄一は約600の社会事業にも関わっており、経済面以外でもさまざまな分野で日本社会に大きな影響を与えました。


また栄一の思想を調べていくと、彼が日本に根付かせようとしていたのは、一般的にイメージされる「資本主義」とは異なる部分が大きいということが分かります。

 

1血洗島での学び

 

渋沢栄一1840年武蔵国血洗島村(今の埼玉県深谷市)で生まれました。
渋沢家は藍玉の販売で生計を立てる農家で、栄一も信州までその販売に出かけ、商売の経験を積みました。


栄一は若い頃から商才があり、藍玉製造者を招待して、良質の藍玉を作った順番に上座から座らせて競争心を起こさせたというエピソードがあります。
村の藍玉の製造に競争の原理を持ち込んだところから、後の活動の原点が見られます。

 

また栄一は、若い頃から商売以外の知識も身につけました。
父親や、近所で塾を開いていた師の尾高惇忠の教育により、中国の古典や日本史などの書物に接していました。
それにより尊皇攘夷の思想に目覚め、欧米列強諸国に対して開国する日本の行く末を憂い、惇忠をはじめ仲間たちと議論を重ねるようになります。
この頃に実用的な知識と道徳的な教養を身につけていたことが、後に彼が主張する「道徳経済合一説」につながったのだと思われます。

 

栄一は16歳の時、岡部藩の陣屋に父の代理として出頭しました。
その際に御用金を求められたのに対し、父に確認してから改めて返答に来ると返事をしたことで、代官の怒りをかいました。
代官の横柄な態度に栄一は憤りを覚え、強い身分制度に疑問を感じ始めます。
ここから官尊民卑の風潮を打破することを目指すようになりました。

 

2一橋家の家臣

 

攘夷、倒幕を志す栄一は、惇忠ら仲間たちとともに横浜の外国人居留地の焼き打ちを計画します。
しかし仲間の1人が反対したことで計画は立ち消え、故郷を追われて京都へ向かいました。
これ以降の栄一を見ていくと、極端な手段で物事を解決しようとはしなくなり、優れたバランス感覚で物事を進めるようになっていくことが分かります。
焼き打ちの失敗がそのきっかけになったのではないでしょうか。 

 

志士としての活動を始めた栄一でしたが、幕府の役人からの追及を受けることになり、それから逃れるために一橋慶喜の家臣であった平岡円四郎を頼って、一橋家に仕える選択をしました。
倒幕を目指していた栄一にとって、幕府側である一橋家に仕えるのは裏切りととられてもおかしくない行為でした。


栄一は自分の思想を強く持っていたものの、その思想に凝り固まることなく、異質なものに接して取り入れるだけの柔軟性があったのだといえます。

だからこそ横浜焼き打ちを計画していた約6年後に、西洋の株式会社の制度に感心して日本に導入するに至るのです。
それでも「官尊民卑の打破」という信念は生涯変わることがなく、いわばそのための手段を探っていたのであり、変化しながらも一本の筋を通した生き方だったといえます。

 

栄一は一橋家の家臣として諸藩の実力者たちと関係を持ち、西郷隆盛とも交流しています。
この時期の栄一の最大の活躍は、一橋家の財政改革です。
藩札の発行、商品作物の販路拡大などによって、一橋家の財政を潤しました。

 

3パリでの衝撃

 

やがて主君の慶喜が将軍になったことで、栄一は幕臣となりました。
1867年、パリ万国博覧会に幕府は使節を派遣し、栄一は慶喜の命令でこれに参加します。


栄一はパリだけでなく西洋諸国を回り、その文明の先進性に衝撃を受けました。
彼がこの洋行で最も影響を受けたのが、人々から資本を集めて事業を行う株式会社の仕組みでした。

 

栄一はこの時にパリで資本主義を学んだといわれていますが、彼が学んだのは純粋な資本主義とは少し違うものだったという説があります。
当時のフランス皇帝のナポレオン3世、さらに栄一の家庭教師で銀行家だったフリュリ・エラールはサン・シモン主義者であり、栄一に影響を与えたのはサン・シモン主義だったのではないかというのです。


サン・シモン主義は産業の発展とともに社会が発展していくという思想であり、社会主義に分類されます。
日本に資本主義を根付かせた渋沢栄一の根底には、実は社会主義の要素もあったというのは注目すべき事実だと思います。

 

サン・シモン主義のもとでは産業を行う商人が重視されており、銀行家のエラールが軍人と気軽に話している光景に栄一は衝撃を受けたといいます。
それは士農工商身分制度が強かった当時の日本では、考えられない光景でした。
代官からの侮辱を受けてから身分制度に疑問を抱いてきた栄一にとって、それは将来に日本が目指すべき姿に映ったに違いありません。

 

幕末に洋行を経験して強い衝撃を受けた人物は他にもいますが、そのほとんどが西洋諸国の政治体制に興味を持っています。
栄一のように経済の仕組みに注目して、その知識を日本に持ち帰ったというのは稀有な例だといえます。
これは血洗島での商売や一橋家での財政改革の経験をしていた栄一だからこその観点であり、下地ができていた彼だからこそ株式会社の仕組みをすんなりと理解することができたのです。

 

栄一のパリ滞在中、日本では慶喜大政奉還によって政権を朝廷に返上し、その後戊辰戦争旧幕府軍が敗北して明治新政府が成立しました。
そんな大変革のさなかに、栄一は日本に帰国することになりました。

 

表現するということ② 岡本太郎の芸術論

僕が芸術家として最も尊敬しているのが、「芸術は爆発だ」という言葉で知られる岡本太郎です。

 

2年前に各地で開かれて話題を呼んだ、「展覧会 岡本太郎」にも訪れました。
岡本太郎の若い時から晩年までのさまざまな作品が展示されており、その力強さには圧倒されるしかありませんでした。

 

岡本太郎は非常に複雑で難解な思考、感性を持った人だというのが、作品を見るとよく分かります。
正直いってほとんどの作品が理解できませんでした。
しかし彼は、見た人にそう思わせることこそ理想だと考えていたそうです。
「芸術はうまくあってはいけない。きれいであってはならない」という彼の言葉が象徴しているように、ありのまま上手く描いているから芸術性が高いとは考えていませんでした。

 

難解ではありますが、彼の作品には社会や人生に対しての強烈なメッセージが隠れています。

例えば渋谷駅の壁画になっている「明日の神話」という作品は、第五福竜丸被爆した際の水爆実験がモチーフになっています。

 

最も有名な作品である「太陽の塔」の完成にも、彼らしい思想と意図が秘められています。

当時開催された大阪万博のテーマは「進歩と調和」で、そのテーマに合わせた作品を依頼されていました。

 

しかし彼は「人類は進歩も調和もできていない」と考え、あえて人類と反対の概念である自然の象徴としての太陽をモチーフにしました。

なんとも彼らしい、へそ曲がりで痛快なエピソードです。

 

太陽の塔は最近内部も公開されるようになっていて、僕も見に行きました。

内部の空間は「生命の樹」という作品に貫かれていて、生命が誕生してから現在に至るまでのさまざまな生物が、下から上に向けて順番に取りつけられています。

 

これを見た時の衝撃は今でも強く覚えています。

生命というものの偉大さに圧倒されて、しばらく立ち尽くしました。


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おもしろいと思ったのは、一番上の人間がとても小さく作られていることです。

生命の進歩の歴史の中では、人類というのはちっぽけで豆粒のような存在にすぎません。

まさに「人間がそんなに偉いのか」という、万博のテーマに対するアンチテーゼを感じました。

 

表現をするというのは自分の思想、価値観をぶつけることであり、無限の可能性を秘めたものです。

それは難解なものであっても、ときに誰かの考え方を揺り動かすかもしれません。

 

表現するということ① 芸術作品はなぜ難解なのか

先週上野の森美術館国立西洋美術館で、それぞれ「モネ 連作の情景」と「キュビスム展」を見てきました。

この2つを見ると、近代から現代にかけて絵画の表現方法は劇的に拡大していったことが分かります。

 

美術史は、モネをはじめとした印象派の登場からよりおもしろくなると思っています。

なぜならそれまで対象をありのまま描くことが美しいとされていたのに対し、印象派から画家が、風景や対象に対して自分の解釈を加えるようになっていったためです。

それは当時カメラが発明されたことで、ありのまま描くことに価値が見出されなくなったことが関係しています。

 

そして時代が進むにつれてその解釈の仕方はどんどん自由に、いい意味で何でもありになっていきます。

ピカソらが起こしたキュビスムの絵画は、ものによっては全く意味が理解できないものもあります。

 

しかし僕はそういう作品のほうが好きで、わけ分からないもの見たさに美術館に行くこともあります。

この人はどういう感性で対象をこう捉えたのだろうと考えてみるのは楽しいです。

 

そもそも僕たちは対象をありのままに、全員が全く同じように見ているわけではありません。

人それぞれのフィルターがあって、それを通して見ているわけです。

だからピカソの絵を見て「こんなのはインチキだ」というのは見当違いなわけです。

そしてその画家の解釈が独特であればあるほど、作品は難解でよく分からないものになります。

 

見えるものをそのまま描くのではなく、作者の独自の解釈で描くからこそ難解な芸術作品が生まれるということは分かりましたが、それにしてももっと素人にも分かりやすいものにはできないのでしょうか。
それは絵画に限らず、「表現する」という全ての行為に当てはまることだと思います。
哲学や文学、音楽といった分野においても難解で分かりにくいものはいくらでもあります。

 

しかしだからといってそれが表現が下手というわけでは決してなく、上手く表現しようとするからこそ分かりにくいものができあがるのです。
本来表現するというのは、世界を狭める行為だといえます。
自分が伝えたいと思うものを何らかのかたちで表現することで、どうしても本来伝えたかった純粋な原型よりも歪曲、または縮小されて伝わってしまうのです。


そうはいっても自分の中にあるものを発信するためには、表現をしないわけにはいきません。
その時に分かりやすくしようとすればするほどいろいろな型にはめることになり、本来伝えたかった原型とはより遠ざかってしまいます。
自分の中の原型をできる限り純度を高めて伝えようとするからこそ、難解な表現ができあがるのです。

 

どれほど自分の中に深い世界観があってそれを伝えたいと思っても、完全にその通りに伝えることができないという点で、芸術というのはどこか孤独で悲しみを帯びた行為なのかもしれません。
芸術家に悲劇的な人生をたどる人が多いことも納得できます。

人生は「楽しい」ではなく「楽しむ」もの

別の記事で自分なりの目的をもって生きることが大事ということを書いてきましたが、そんなに人生は甘くないという意見もあるでしょう。

 

子供の頃は大きな夢を口にできましたが、大人になると現実を見ろと笑われてしまいます。

たしかに世の中は厳しいもので、成功できるのは一握りの人間だけです。

しかしだからといって、自分の成し遂げたいことではなくて、生活することや食べていけることだけを考えないといけないかのような風潮は、人生を味気なくさせると思います。

大きすぎる夢でなくても実現可能な目的を持つことで、それらを調和させることもできるはずです。

 

そもそも世の中は悲観的な論調に満ちているように思います。

人生や社会が残酷で、思い通りにならないものであるということは否定しません。

しかしだから人生は楽しくないものだと考えるのではなく、だからこそ人生を楽しむ工夫をしようという考えに切り替えるべきです。

いわば悲観論ありきの楽観論です。

 

物事には二面性があるというように、反対の概念が同じものの中に共存しているということが起こりえます。

だから人生にも不幸、絶望という概念と幸福、希望という概念は相互依存しながら成り立っていると思うのです。

 

分かりにくいいい方をしましたが、いわば不幸を味わった人間にしか本当の幸福は分からないし、絶望を味わった人間しか希望を感じることはできません。

人生を否定するか肯定するかではなくて、否定しつつ肯定するという態度が許されるはずです。

 

この態度を1つの宗教にまで昇華させたのがお釈迦様ことブッダです。

僕は仏教とは人生の否定の先にある肯定だと思っています。

ブッダは「一切皆苦」という言葉で、人生のあらゆるものは苦であると説きました。

そして、だからこそそれを受け入れて生きていくしかないとしました。

最後に前向きな転換をしているからこそ、仏教は多くの人の心を捉えてきたのだと思います。

 

高杉晋作は幕末の長州藩士で、型破りな発想と行動力で明治維新に貢献した人物ですが、彼の辞世の句は 「おもしろき こともなき世を おもしろく」というものでした。

解釈は他にもあるようですが、「おもしろくない世の中だが、俺はおもしろく生きてやった」という意味なのだと思います。

高杉も世の中がおもしろくないものであることは認めているわけですが、そのうえでいかにおもしろく生きてやろうかというのが、彼の人生だったわけです。

 

世の中に悲観論が溢れているといいましたが、その中でも特に違和感があるのが「学生時代は人生の夏休み」といったような、社会に出る前や若い時が人生の楽しみのピークであるかのような言い方です。

いわばそれからの人生を苦しみだとして、最初から楽しむことを諦めているわけです。

 

そういう人は、年をとるほど人生は虚しくなっていくと考えています。

しかしそれは非常に損な考え方だという気がします。

年をとるにしたがって多くの経験をして多くのことを学び、人間が大きくなっていくと考えてもいいはずです。

 

それだけでは楽しいと思えないという人もいるかもしれません。

そういう人こそ、自分だけの人生の目的をもってみてはどうでしょうか。

そうすると年をとればとるだけ、自分のゴールに近づいていけます。

きっと年をとるのに比例して、幸福度もあがっていくことでしょう。

 

人生とは楽しいものではありません。

だからこそ楽しむ努力をしないといけないのです。

 

 

 

自己肯定感を高めるには② 自分の運命を受け入れる

自己肯定感を持てない原因として、過去のトラウマがあるという人も多いでしょう。

誰しも思い出したくない過去はあるもので、そんなことは忘れて前に進もうといわれても、なかなかそう簡単に忘れられるはずがありません。

 

ならばいっそ自分の嫌な過去をまとめて受け入れてしまうのがベストなのではないでしょうか。

もしかしたらその過去があったから今の自分の成長に繋がっているのかもしれないですし、解釈次第ではプラスにもとらえられるかもしれません。

 

人間どうしても、自分だけが不幸な目にあったと思うことには耐えられません。

だけど見方を変えたらそれは、自分だけしかできない経験ができたということかもしれません。

 

映画化もされた角田光代さんの「八日目の蝉」という小説があります。

主人公の恵理菜は、自分が幼少の頃に誘拐犯に育てられたという過去を受け入れられずにいました。

しかし友人の千草からその過去に向き合ってみるように勧められ、かつてその誘拐犯と過ごした地まで足を運びます。

 

そこで自分が、その誘拐犯から愛情をもって育てられたという事実を思い出していきました。

誘拐犯の野々宮希和子はかつての父の不倫相手であり、赤ん坊だった恵理菜の笑顔を見た時に自分が育てようと決意して誘拐しました。

「この赤ん坊を幸せにできるのは自分しかいない」と思っての犯行だったのです。

 

タイトルの「八日目の蝉」というのは千草が恵理菜に語った例えから来ています。

八日目の蝉は周りの仲間がみんないなくなっているから寂しいのではないかという恵理菜に対して、千草は「八日目の蝉は自分だけが誰も見れなかった景色を見ることができる」ということを伝えます。

恵理菜はそこから、自分だけが味わらないといけなかった運命を憎むのではなく、そこにも深い意味があったのだと思うようになっていくのです。

 

うろ覚えな部分があるので、詳しくは小説か映画を見ていただけたらと思います。

感動すること間違いありません。

 

自分の運命を受け入れるということに関して、もう1冊おすすめしたい本がサン・テグジュペリの世界的名作「星の王子様」です。

タイトルは知っていてもあらすじを知らない方もいるかもしれませんが、内容は星の王子様がその星を出て他の星を冒険し、最後は地球にたどり着くという単純なものです。

しかし作品を通してのメッセージというのは童話とは思えないほど難解で、読む人により解釈が分かれるほどです。

 

全体を通して描かれているのは、人生において大事なことは何か、幸福とは何かといった普遍的なテーマです。

その中でも最も考えさせられたエピソードを紹介します。

 

王子様は自分の星で一本のバラを大切に育て、そのバラとの友情を育んでいました。

しかし地球に来てたくさんのバラが咲いているのを目にして、自分がたった一本のバラに愛情を注いでいたことはつまらないことだったと嘆きます。

 

しかし出会った狐から、「自分が愛情をもって育てたのなら、たった一本のバラでもそれがお前にとっては一番のバラだ」ということを気付かされます。

誰しもつい他の人と同じようでありたいとか思ってしまいますが、自分だけが出会えた人間、出来事というのが最も貴重で価値のあるものです。

たとえそれが世間的に見ればちっぽけなものだったとしても、自分が思い入れのあるものならそれは大切にするべきではないでしょうか。

 

これもいろんな解釈のされるエピソードではありますが、僕はそんなふうにとりました。