【歴史】渋沢栄一の思想と生涯① 日本の資本主義はいかに始まったか

新一万円札の顔に決まった渋沢栄一は、2021年に大河ドラマで取り上げられたこともあり注目を集めています。


銀行をはじめ約500の株式会社の設立に携わり、「日本資本主義の父」といわれる栄一ですが、その名称では彼の生涯を表現しきれていないように感じます。
栄一は約600の社会事業にも関わっており、経済面以外でもさまざまな分野で日本社会に大きな影響を与えました。


また栄一の思想を調べていくと、彼が日本に根付かせようとしていたのは、一般的にイメージされる「資本主義」とは異なる部分が大きいということが分かります。

 

1血洗島での学び

 

渋沢栄一1840年武蔵国血洗島村(今の埼玉県深谷市)で生まれました。
渋沢家は藍玉の販売で生計を立てる農家で、栄一も信州までその販売に出かけ、商売の経験を積みました。


栄一は若い頃から商才があり、藍玉製造者を招待して、良質の藍玉を作った順番に上座から座らせて競争心を起こさせたというエピソードがあります。
村の藍玉の製造に競争の原理を持ち込んだところから、後の活動の原点が見られます。

 

また栄一は、若い頃から商売以外の知識も身につけました。
父親や、近所で塾を開いていた師の尾高惇忠の教育により、中国の古典や日本史などの書物に接していました。
それにより尊皇攘夷の思想に目覚め、欧米列強諸国に対して開国する日本の行く末を憂い、惇忠をはじめ仲間たちと議論を重ねるようになります。
この頃に実用的な知識と道徳的な教養を身につけていたことが、後に彼が主張する「道徳経済合一説」につながったのだと思われます。

 

栄一は16歳の時、岡部藩の陣屋に父の代理として出頭しました。
その際に御用金を求められたのに対し、父に確認してから改めて返答に来ると返事をしたことで、代官の怒りをかいました。
代官の横柄な態度に栄一は憤りを覚え、強い身分制度に疑問を感じ始めます。
ここから官尊民卑の風潮を打破することを目指すようになりました。

 

2一橋家の家臣

 

攘夷、倒幕を志す栄一は、惇忠ら仲間たちとともに横浜の外国人居留地の焼き打ちを計画します。
しかし仲間の1人が反対したことで計画は立ち消え、故郷を追われて京都へ向かいました。
これ以降の栄一を見ていくと、極端な手段で物事を解決しようとはしなくなり、優れたバランス感覚で物事を進めるようになっていくことが分かります。
焼き打ちの失敗がそのきっかけになったのではないでしょうか。 

 

志士としての活動を始めた栄一でしたが、幕府の役人からの追及を受けることになり、それから逃れるために一橋慶喜の家臣であった平岡円四郎を頼って、一橋家に仕える選択をしました。
倒幕を目指していた栄一にとって、幕府側である一橋家に仕えるのは裏切りととられてもおかしくない行為でした。


栄一は自分の思想を強く持っていたものの、その思想に凝り固まることなく、異質なものに接して取り入れるだけの柔軟性があったのだといえます。

だからこそ横浜焼き打ちを計画していた約6年後に、西洋の株式会社の制度に感心して日本に導入するに至るのです。
それでも「官尊民卑の打破」という信念は生涯変わることがなく、いわばそのための手段を探っていたのであり、変化しながらも一本の筋を通した生き方だったといえます。

 

栄一は一橋家の家臣として諸藩の実力者たちと関係を持ち、西郷隆盛とも交流しています。
この時期の栄一の最大の活躍は、一橋家の財政改革です。
藩札の発行、商品作物の販路拡大などによって、一橋家の財政を潤しました。

 

3パリでの衝撃

 

やがて主君の慶喜が将軍になったことで、栄一は幕臣となりました。
1867年、パリ万国博覧会に幕府は使節を派遣し、栄一は慶喜の命令でこれに参加します。


栄一はパリだけでなく西洋諸国を回り、その文明の先進性に衝撃を受けました。
彼がこの洋行で最も影響を受けたのが、人々から資本を集めて事業を行う株式会社の仕組みでした。

 

栄一はこの時にパリで資本主義を学んだといわれていますが、彼が学んだのは純粋な資本主義とは少し違うものだったという説があります。
当時のフランス皇帝のナポレオン3世、さらに栄一の家庭教師で銀行家だったフリュリ・エラールはサン・シモン主義者であり、栄一に影響を与えたのはサン・シモン主義だったのではないかというのです。


サン・シモン主義は産業の発展とともに社会が発展していくという思想であり、社会主義に分類されます。
日本に資本主義を根付かせた渋沢栄一の根底には、実は社会主義の要素もあったというのは注目すべき事実だと思います。

 

サン・シモン主義のもとでは産業を行う商人が重視されており、銀行家のエラールが軍人と気軽に話している光景に栄一は衝撃を受けたといいます。
それは士農工商身分制度が強かった当時の日本では、考えられない光景でした。
代官からの侮辱を受けてから身分制度に疑問を抱いてきた栄一にとって、それは将来に日本が目指すべき姿に映ったに違いありません。

 

幕末に洋行を経験して強い衝撃を受けた人物は他にもいますが、そのほとんどが西洋諸国の政治体制に興味を持っています。
栄一のように経済の仕組みに注目して、その知識を日本に持ち帰ったというのは稀有な例だといえます。
これは血洗島での商売や一橋家での財政改革の経験をしていた栄一だからこその観点であり、下地ができていた彼だからこそ株式会社の仕組みをすんなりと理解することができたのです。

 

栄一のパリ滞在中、日本では慶喜大政奉還によって政権を朝廷に返上し、その後戊辰戦争旧幕府軍が敗北して明治新政府が成立しました。
そんな大変革のさなかに、栄一は日本に帰国することになりました。