【歴史】渋沢栄一の思想と生涯② 現代にこそ学ぶ意味

4官から民へ

 

帰国した栄一は、慶喜が謹慎していた静岡藩で働くことになりました。
ここで栄一は「商法会所」を設置し、パリで得た知識を活かして静岡藩の経済のために尽くします。
諸説ありますが、この商法会所は日本で初めての株式会社ともいわれています。

 

1869年、栄一の評判を聞いた大隈重信の説得により、栄一は新政府の大蔵省に出仕することになりました。
栄一はさまざまな改革を行う改正掛を設置してその掛長も兼任し、日本の近代化に大きく貢献します。


この時に度量衡、租税制度の改正、太陽暦の採用、金融制度、郵便制度の整備、銀行の創設、鉄道施設、官庁建築などを手がけました。他にも中央主権国家になるために不可欠であった廃藩置県や、生糸の大量生産を可能にするための富岡製糸場の創設にも関わりました。

 

しかし財政の規律を重んじる栄一は、軍備増強を進める大久保利通と対立したことで大蔵省を辞任し、役人ではなく民間の立場から社会を発展させることを決意します。
日本の近代化のためには民間業の発展が欠かせないというのが栄一の信念でしたが、周囲からは理解されずに反対を受けました。
江戸から明治に変わったとはいえ、商売を卑しいものとする考えは根強く残っており、政府での地位を捨てて民間へと転身するというのは当時の常識では考えられないことでした。

 

5合本主義

 

実業界の実力者として、栄一は次々と株式会社の創設に関わりました。
その分野は銀行、ガス、電力、鉄道、海運、保険、製紙、食品、化学など多岐にわたり、それらの基盤を整備していきます。
後述しますが栄一はこれと同時にいくつもの社会事業にも関わっており、それだけの功績を1人の人間がやったというのは驚かざるをえません。

 

こうして日本に資本主義が根付いていくのですが、栄一自身は資本主義という言葉を使うことはなく、「合本主義」という言葉を使いました。
この「合本主義」という言葉のニュアンスを理解すれば、彼が単純に資本主義を始めたというだけでは評価しきれないことが分かります。

 

栄一は誰もが認める実力者でありながら、自分の財閥を築くことはありませんでした。
多様性を重視し、豊富な人脈の中から適材適所に経営者を選び、そのうえで出資しました。
そして株主総会などの場では、中立の立場から利害の反する者同士の調整、仲介に努めます。
あくまで熟議を重視し、できる限り誰しもが納得できる結論を導き出すべきだというのが彼の信念でした。


栄一はトップの立場から日本経済を引っ張っていったというよりも、裏方として日本経済が上手く回るようにサポートしていたという方が適切だと思われます。
ちなみに栄一と並ぶ実業家である岩崎弥太郎は、独占によって強いリーダーシップで経済を牽引するべきだという考えを持っており、その思想の違いで栄一と対立しました。

 

栄一の主張として知られるのが「道徳経済合一説」というもので、「論語と算盤」という言い方もしています。
「算盤」はいわば商売、経済を象徴する言葉で、「論語」というのは道徳、正しく生きることを象徴した言葉であり、経済活動をするうえではこの2つがどちらもなくてはならないという意味です。
金儲けが卑しいものとされた時代にあって、お金を儲けないことには現実に何かを成し遂げることができないということを栄一は主張します。


しかし金儲けはあくまで公益を実現するための手段であり、そればかりに専念してはならないとも説きました。
栄一の活躍もあって日本経済は大いに発展しましたが、それに伴い道徳が廃れていたことを彼は心配して警鐘を鳴らしたのです。


これは経済成長と持続可能性の調和が叫ばれる現代において、教訓とすべき考えだと思います。
だからこそ渋沢栄一の考えや生き方が、今になって注目されているのです。

 

6 公益の追求

 

日本に資本主義を起こした栄一は、その時期から資本主義の発展によって生じる矛盾を認識したうえでその解決策を模索して手を打とうとしました。


例えば競争社会で生じる格差、貧困を自己責任として放置することなく、政府が解決すべき問題だという認識を持っていました。
栄一は生活困窮者を保護する目的で、福祉施設の「東京養育院」を創設し、生涯その運営に関わり続けました。
そして月に1回は訪問し、子供たちをはじめ入院者と面談していたといいます。
生活困窮者のために公金を使うべきではないという反対論が強い中でも、栄一は議会で格差をなくすことの必要性を訴え続け、養育院を守りました。

 

福祉の問題だけでなく、栄一はさまざまな社会問題に危機感を持ち、数多くの社会事業に関わり続けました。
その分野は、女子教育の普及など教育に関すること、労働問題、宗教の対立、医療など多岐にわたります。


また1923年に関東大震災が発生した際には、83歳だった栄一は被災者の救済や東京の復興に尽力しました。


栄一にとっての最優先事項は「公益」を実現することであり、そしてその「公益」とは国家の利益、生産性というような意味合いだけではなく、社会にいる全ての人々の幸福でなければならなかったのです。

 

そのような「公益」を求める栄一にとっては、競争は独占よりも好ましいものでしたが、とはいえ過度な競争は社会に悪影響をもたらすものだという認識を持っていました。

そのため民間企業の価値を高く評価してその普及に努めながらも、全てを民営化するべきだとは主張せず、政府が産業を保護することの必要性も理解していました。


また栄一は国際貿易についても、当初は自由貿易主義者でしたが、輸入される外国の製品から日本の産業を守るために保護貿易が必要だと考えを変えるようになりました。
この辺りに栄一へのサン・シモン主義の影響が見られます。

 

栄一が競争社会に対して抱いていた問題意識は、どれにしても現代にも通ずるものであることが分かります。
彼の評価されるべき点は、資本主義を始めたこと以上に、その限界を知ったうえで対処していたことなのではないでしょうか。

 

7民間外交

 

1909年、数多くの役職を兼任していた栄一は、そのほとんどを辞退します。
それ以降栄一は民間外交に専念し、日米関係、日中関係の改善に尽力しました。


当時アメリカでは反日感情が高まっており、日本人移民の排斥が問題になっていました。
ルーズベルト大統領とも親交のあった栄一はアメリカでもよく知られた存在で、日米関係の修復のためにアメリカの各都市を回って講演を行います。


また日米お互いの児童に親日感情、親米感情が芽生えるよう、アメリカの児童から日本の児童に「親善人形」を贈りたいという、アメリカの「世界児童親善会」からの提案を栄一は受け入れました。
アメリカの各地で人形送り出しの式典が行われ、日本でも歓迎会が盛大に行われて栄一も参加しています。
日本からも返礼の人形が贈られ、人形の交換というかたちでの文化交流は親日感情、親米感情の高まりにつながる結果になりました。

 

栄一は日米関係だけでなく、日中関係の改善にも取り組みました。
1913年、来日していた孫文と会談した栄一は、孫文に実業家になることを勧めたうえで、日中合弁会社の設立を提案しました。
翌年栄一が中国に訪れて袁世凱と会談した際に、その構想は「中日実業株式会社」として実現しました。

さらに中国で飢饉や水害が起こった際には、財界から義援金を集めて物資を送っています。


これらの民間外交の功績から、栄一はノーベル平和賞の候補にまでなりました。

 

国際協調主義者であった栄一は、国内の帝国主義的野心を露わにしていた軍部や政界と衝突することも多々ありました。
例えば日米中の協調を目指す栄一は、満州の鉄道を日米で共同経営することを主張しますが、強い反対にあって日本が単独で経営することが決まりました。
満州の権益をきっかけに日本が戦争に突入したことを考えれば、栄一の主張には十分な価値があったことが分かります。


また第一次世界大戦のさなかに日本が中国に突きつけた「二十一ヶ条の要求」や、シベリア出兵などの日本の侵略行為には強く反対しました。

 

しかし栄一は朝鮮半島や中国へと経済進出をしており、その行為は進出先の近代化やインフラの整備に貢献したとはいえ、軍部のアジアへの侵略路線との親和性があったことも否定できません。
特に朝鮮半島に対しては、安全保障上の観点から日本の影響下に置きたいという意識があったことは確かであり、栄一が全く帝国主義とは無縁の人物だったとはいえないと思います。

 

とはいえ日清日露戦争以後、日本人が戦争、領土の拡大に熱狂していくなかで、あくまで協調外交路線を貫いたことは事実です。
しかし皮肉にも、栄一が亡くなったのと同じ年の1931年に満州事変が勃発して日本は中国、アメリカとの戦争へと向かっていきます。
軍部が実権を握って国民の自由が制限され、栄一が憎んでいた「官尊民卑」の時代が再び到来するのです。