表現するということ① 芸術作品はなぜ難解なのか

先週上野の森美術館国立西洋美術館で、それぞれ「モネ 連作の情景」と「キュビスム展」を見てきました。

この2つを見ると、近代から現代にかけて絵画の表現方法は劇的に拡大していったことが分かります。

 

美術史は、モネをはじめとした印象派の登場からよりおもしろくなると思っています。

なぜならそれまで対象をありのまま描くことが美しいとされていたのに対し、印象派から画家が、風景や対象に対して自分の解釈を加えるようになっていったためです。

それは当時カメラが発明されたことで、ありのまま描くことに価値が見出されなくなったことが関係しています。

 

そして時代が進むにつれてその解釈の仕方はどんどん自由に、いい意味で何でもありになっていきます。

ピカソらが起こしたキュビスムの絵画は、ものによっては全く意味が理解できないものもあります。

 

しかし僕はそういう作品のほうが好きで、わけ分からないもの見たさに美術館に行くこともあります。

この人はどういう感性で対象をこう捉えたのだろうと考えてみるのは楽しいです。

 

そもそも僕たちは対象をありのままに、全員が全く同じように見ているわけではありません。

人それぞれのフィルターがあって、それを通して見ているわけです。

だからピカソの絵を見て「こんなのはインチキだ」というのは見当違いなわけです。

そしてその画家の解釈が独特であればあるほど、作品は難解でよく分からないものになります。

 

見えるものをそのまま描くのではなく、作者の独自の解釈で描くからこそ難解な芸術作品が生まれるということは分かりましたが、それにしてももっと素人にも分かりやすいものにはできないのでしょうか。
それは絵画に限らず、「表現する」という全ての行為に当てはまることだと思います。
哲学や文学、音楽といった分野においても難解で分かりにくいものはいくらでもあります。

 

しかしだからといってそれが表現が下手というわけでは決してなく、上手く表現しようとするからこそ分かりにくいものができあがるのです。
本来表現するというのは、世界を狭める行為だといえます。
自分が伝えたいと思うものを何らかのかたちで表現することで、どうしても本来伝えたかった純粋な原型よりも歪曲、または縮小されて伝わってしまうのです。


そうはいっても自分の中にあるものを発信するためには、表現をしないわけにはいきません。
その時に分かりやすくしようとすればするほどいろいろな型にはめることになり、本来伝えたかった原型とはより遠ざかってしまいます。
自分の中の原型をできる限り純度を高めて伝えようとするからこそ、難解な表現ができあがるのです。

 

どれほど自分の中に深い世界観があってそれを伝えたいと思っても、完全にその通りに伝えることができないという点で、芸術というのはどこか孤独で悲しみを帯びた行為なのかもしれません。
芸術家に悲劇的な人生をたどる人が多いことも納得できます。