現代のアートの可能性

 

2年前に、民藝運動創始者である柳宗悦没後60年を記念して、「民藝の100年」展が開かれました。
「民藝」とは何気なく使う日用品にこそ美を見いだす概念であり、展覧会では柳が日本各地から発掘した暮らしの道具が並べられて話題を呼びました。

 

柳宗悦はそれまで高貴で華美な工藝品にのみ美的価値を見いだされていたのに対し、上等品ではない普通の品々にスポットライトを当てました。
美術的であることが評価される高級品は現実に使われることは少なく、実用的とはいえません。
柳は実用的で人々の暮らしに根づいているものにこそ美を見いだそうとしたのです。


さらに柳は、高級品と日用品の違いについて「作為」と「自然」という言葉で説明しています。
美術的工藝品が作者が表現したいものを完成させるのに対して、普通の民藝品は長い伝統のなかで自然に形作られたものであり、より賢い叡智が潜んでいるというのが彼の主張でした。

 

近年のビジネス書でも「アート思考」という用語が用いられるようになり、アートは一部の芸術家のみでなく、一般人がビジネスや日常生活で活用できるものへと変わってきています。
なかでも末永幸歩さんの「13歳からのアート思考」という本が、古代から今日までのアートのとらえ方の変遷を分かりやすく説明してくれています。


もともとアート作品は教会やお金持ちのために描かれるものであって、画家が自分が好きなように描けるものではありませんでした。
また当初は目に映ったものをありのままに描くことが、アートにおける正解とされていました。

 

しかし近代になり、カメラが発明、普及したことでその価値観は崩れ始めます。
カメラが目に映ったものを写し取ることで元来絵画が果たしてきた役割を代替したことにより、絵画の役割は拡大してそれぞれの画家が自由に表現していくようになりました。


作者の自己表現という役割を得たアートは、現代にかけてさらにその役割を拡大させます。
たとえばデュシャンという人は、ただの中古便器に「泉」とタイトルをつけて展示したことで知られています。
これにより芸術作品は鑑賞者の視覚に訴えるものから思考に訴えるものへと移行したといわれています。

 

やがて一部の人々は、「そもそもアートという枠組みを作って非アートとの間に壁を作ることに意味があるのか」と疑問を持ち始めます。
画期的だったデュシャンの「泉」でさえ、アートという枠組みだけは前提として受け入れていたといえます。


その疑問を作品として世に出したのがウォーホルという人物です。
ウォーホルは洗剤やスープ缶といったスーパーで見かける商品の模倣を自分の作品として出展しました。
自分でデザインするわけではなく既存の商品を模倣するだけなので、大量にアート作品が生まれていきました。


彼はあえて自分の個性を消して日用品をアートとして取り上げることで、アートという枠を取り払い一般の人々の生活レベルにまで解放したのです。
美という概念を一部の高価な芸術作品だけでなく、普段の生活で何気なく使う品々から見いだそうという柳宗悦とウォーホルの思想には、どこか似通ったものを感じます。

 

「アート思考」という考え方が注目されるようになったのは、「人生100年時代」といわれる変化の激しい時代に突入したことが関係しています。
これからは1つの決まった正解を探すのではなく、自分なりに問いを発して答えを導く力がなければ時代の流れに対応できないといわれています。
論理的思考でもって最適なものを生み出すという能力も大事ですが、その分野は今後AIが大きく担うことが予想されますし、どうしても論理的思考には限界があってそれだけでは見えてこないものもあります。


これからはそれに加えてクリエイティビティや感性といった、まさにアーティストが作品を作る際に必要な分野がビジネスでも必要になってくるのです。
論理やデータに基づいて客観的な正解を見つけるのでなく、自分の内側からの直感で新しい視点を得るというのは難しいことです。

そのための方法などが秋元雄史さんの「アート思考 ビジネスと芸術で人々の幸福を高める方法」という本に詳しく書かれているのでおすすめします。

 

アートという枠組みが取り払われ、一般のビジネスマンにもアート思考が求められる今日においては、アートとは一部の芸術作品を生み出す人々のものだけではなくなりました。
これからはどんな人でもアーティストを名乗ることが許されるといっていいでしょう。

 

資本主義が発展したことで、より安価で多くのものが生産、販売されるようになってアートの可能性は広がったといえます。
それにより一般市民が手にできる商品が増え、より多彩なデザインに接することができるようになったからです。


しかし安価で多産される民藝品にこそ価値を見いだした柳宗悦でさえ、機械生産が可能となり粗悪な商品が出回るようになったことに警鐘を鳴らしました。
機械によって大量生産された民藝品は安価ではあっても、それは競争原理のもとで利益を得るためにつけられた結果であり、安く人々に届けるという意図でつけられたわけではありません。
さらに柳は質が低く美しさもないそれらの商品の価値を考えれば、その価格でさえ高いということまでいっています。

 

たしかに大量生産が可能になった現代において、アートは人々に身近なものになったかもしれませんが、かつてほどの高貴さを失ったのかもしれません。
アートはあくまで人々を幸福にするためにあるべきで、商品もそのために作られるべきであるということを忘れるべきではありません。


ビジネスである以上利益を考えないわけにはいかないのは確かですが、それだけではない価値をもたらすことができてこそアートの存在意義があるといえます。