自己肯定感を高めるには① 自分の性格を受け入れる

自己肯定感という言葉をよく聞くようになり、「自己肯定感が低い」ということを悩みにする人をよく聞きます。

僕もその1人だったのですが、自分なりに自分を好きになれるような考え方をするように工夫してみたら、案外すんなりと自分を受け入れられるようになりました。

 

まず何より大事なのは他人と比較することをやめることです。
これは競争社会の日本では難しいかもしれませんし、僕も他人を羨んだり劣等感を抱いてしまうことはあります。
でもよく考えたら他人に勝たないといけない理由など何一つありません。

 

人間の尊厳というのはその人が他人よりも優れているからあるのではなく、その人が他の誰とも異なるたった一人の存在だからあるのです。
仏教の言葉で「天上天下唯我独尊」という有名な言葉がありますが、これはまさにそのことを教えています。
これは決して、自分は世界中で最も優れた存在だという意味ではありません。
「すべての人はかけがえのない存在で、自分もその中の1人だ」という意味で釈迦は使ったといわれています。
この考え方ができれば、他者を尊重しながら自分にも自信を持てることでしょう。

 

また自信のある人間に変わろうとする時に、焦って早く変わらないといけないと思うことも逆効果になりかねません。
早く変わろうとして変われなかったら、余計に自分を責めてしまうことになるからです。
人間そんなすぐには変われませんから、ゆっくり紆余曲折を経て変わればいいんだと言い聞かせていれば気持ちが楽になります。

 

大した成果を出してないから自信を持てないという人もいるでしょう。
しかし周りを見渡せば、成果を出す前からすでに自信を持っている人はいくらでもいます。
自信に根拠を求めてしまうと成果を出さないといけないと思ってしまい、時間がかかってしまいます。
「根拠はないけど自分ならできるはずだ」と心から信じることができれば、その自信を成果につなげることもできます。

 

とはいえ劣等感を感じていたら、なかなかそんな風は思えないものです。
しかし人には誰しも長所と短所があって、そういう意味ではどの人もそんなに変わりはないのに、自信のある人とない人がこんなに分かれているのはなぜなのでしょうか。
それはその人の実力が決めるわけではなく、自分の長所に注目するか短所に注目するかの違いだと思います。

 

僕もそういう時期がありましたが、劣等感の強い人は自分はだめだという前提でしか考えられなくなってしまっています。
そういう時は自分の短所ばかりが目に入ってしまい、長所と捉えてもいいところもそうは思えなくなってしまいます。

案外自分が思っているより、周りは自分の性格を長所と捉えてくれているものです。


僕は自分の気を遣いすぎてはっきり意見を言えない性格が嫌で、それが普通にできる友達を羨ましく思っていました。
しかし驚くことに、その友達から逆にその性格が羨ましいと言われたことがあったのです。
友達からすればちょっとしたことで他人を許せなかったり攻撃してしまうのが嫌で、他人に寛容でいられる僕が羨ましいと思ったそうです。
短所としか思っていなかったことも、見方を変えたら長所になりうるんだとその時気づきました。

 

そう考えられるようになると、攻撃的に接してくる人に対する見方も変わりました。
そういう人は優越感から自分に攻撃をしてくるとばかり思っていたのですが、意外とそれは劣等感から来ているのではないかと思ったのです。

 

人は誰しもないものねだりで、自分にないものを持っている人が羨ましくなります。
それを自分が持っているものだけで十分で、ないものを望んでもしかたがないと思えている人なら、自信をなくして塞ぎ込んだり、または劣等感から攻撃したりということはしないのでしょう。

 

自分には短所しかないと思っている人は、客観的に自分を見れていないということになります。
人間である以上、絶対に長所もあるからです。

短所を直さないといけないとか、他の人を納得させる成果をあげないといけないとか思う前に、まずは今のままの自分を肯定することです。


とはいえ根拠もなく自信を持てというのは難しいかもしれません。
それならば弱いものでいいから根拠を拾い集めることをおすすめします。
成功体験のような大きなものでなくていいので、これまで誰かに褒めてもらった言葉などの微かなことを思い出してみてください。
短所にしか注目できない時は、褒められた言葉よりも誰かに否定された言葉の方が印象に残ってしまいますが、探してみれば意外に見つかるものです。

 

僕も最初に入った会社で、営業として何の成果も残すことなく辞めてしまいました。
自分の中で大きな挫折だったのですが、会社で先輩から「お前には商品を買いたいと思わせる雰囲気がある」と言われたことが忘れられませんでした。
たったそれだけのことが自信になり、次の会社も営業職として入社することになったのです。

 

人間の意識とはそのまま現実に反映されるもので、自信を持っている人は不思議と本当にその通りの人間になっていきます。
だから根拠もなく自信を持っている方が、結果として成果につながりやすいということです。
逆に自分はだめだと思っていると、それも現実に反映されてしまいます。

 

自信を持てるように性格を変えたいと考えるよりも、とりあえず今のありのままの自分を肯定してみる努力をしてみるべきです。
それが結局性格を変えることにつながるかもしれません。

憲法改正をどう考えるか

安倍元首相が悲願としていたのが憲法の改正であり、その悲願は岸田首相へと引き継がれることになりました。

 

自民党憲法への自衛隊の明記など部分的な憲法改正を主張していますが、かつての自民党憲法改正草案を読むかぎり、その最終目標は根元から今の憲法の理念を変えてしまうことにあるのではないかと疑わざるをえません。
現在の憲法が個人の権利を十分に尊重しているのに対し、改正草案には権利は義務が伴うのであり、公益を犯さない範囲でのみ認められるべきだという主張が記されています。
いわば現在の憲法には個人の権利のみを主張して、それを縛るものがないというのが自民党憲法を改正したい理由の1つだということです。


しかし現在の憲法には「公共の福祉」という概念が記されており、自分の権利のために他人の権利を侵害することは許されていません。
だから個人の権利がいきすぎないように抑制はされているというべきなのですが、改正草案では新しい条文を作ることでその抑制をさらに強くしようという意図が見られます。

 

個人間の権利の衝突を防ぐための「公共の福祉」では不十分だという主張の裏には、国家の権力と個人の権利の衝突までをも憲法の条文で防ごうという思惑が感じられます。
しかしそれがいきすぎると、国民がデモを起こしたり政権を批判するということも認められなくなる恐れがあります。
憲法とはそもそも国家権力を縛って個人の権利を保障するものであり、そうでなければ民主主義が成立しなくなってしまいます。

 

また改正草案の前文には愛国心、道徳といった自民党イデオロギーが盛り込まれているということにも問題があります。
愛国心や道徳を持つこと自体は悪いことではありませんが、それは政府から強制されるべきものではありません。
法律と道徳を分けるというのは近代以降に築かれた政治学の常識であり、改正草案はそれを反故にした内容になっています。

 

自民党憲法を改正したいと願う動機の1つに、現在の憲法は日本人ではなくGHQの手で作られたものだという「おしつけ憲法論」があります。
しかし、この「おしつけ憲法論」が正しい主張であるかを深く考える必要があります。


そもそも当初GHQは日本側に憲法を作らせるつもりでいたものの、提出されたものが以前の明治憲法とほとんど変わらないものであったため、結局GHQによってまとめられることになったという経緯があります。
つまり日本人の手で条文を作るチャンスはあったにも関わらず、日本側がそれを活かせなかったのです。

 

さらにGHQ案が提出されてから国会で審議がされ、それによりできた新しい憲法を当時の日本国民は抵抗することなく受け入れたのであり、アメリカが作ったものを日本人は逆らえずに受け入れざるをえなかったかのような言い方は事実とは異なります。


またマッカーサーは日本国民が作った憲法研究会による憲法草案を参考にしており、それがGHQ案のモデルになったともいわれています。

 

現在の憲法の中で時代にそぐわなかったり、新しく必要になるものがあれば部分的に改正するということは認められるべきです。
しかし「日本人の手で新しい憲法を作るべきだ」というようなイデオロギーによる改正は非常に危険です。
あくまで生活していくうえで必要となる改正を、現実的に議論していく姿勢が求めら

人事を尽くして天命を待つ

僕はもともと気弱で失敗して怒られたり、嫌なことを言われると過剰に落ち込む性格でした。

しかし最近昔ほど落ち込むことがなくなりました。

落ち込むというのは、時間の無駄だと分かってきたのです。

 

これは明石家さんまさんの話ですが、さんまさんもあれだけ明るい人ですがもともとすごく落ち込む性格だったそうです。

しかし27歳の時、「落ち込むというのは自分のことを過信している」ということを悟り、そこから上手くいかなかったと落ち込むことがなくなったということです。

 

自分は今の段階で自分が持っている以上のものは出せないのですから、失敗したとしてもそれが自分にとっての100%だったということです。

それなのに落ち込むということは、「なんで120%を出せなかったんだ」と言っているのと同じことです。

限界が100%なのだから、そんなことは無理に決まっています。

 

それならばこれからあと20%増えるように努力すればいいわけで、今の段階でそれを出すべきだったと言ったところで、今の実力がそれに達していないのだから無理です。

つまり落ち込むというのは、「実際の実力以上のものを出せるはずだったのに」と過剰に自分を評価している状態なのです。

 

またそこには「努力は必ず報われるはずだ」という幻想が隠れています。

努力は当然必要ですし、それは否定しません。

しかし必ず報われるというのは嘘です。

報われないことだってあるけど、それでもするしかないのが努力です。

 

結果が求められる社会だからこそ、報われない時はもどかしい気持ちになるのは仕方ありません。

それでも全力でやりきってそれでも無理だったんなら受け入れるしかないんです。

「人事を尽くして天命を待つ」とはまさにこういうことです。

 

落ち込むだけならまだしも最も軽蔑すべきなのは、自分の実力が足りなかったからと相手を蹴落として相対的に自分が上がろうとするやり方です。

もし勝ち負けがあるんだとしたら、そんな手に出るしかなかった時点でその人の負けです。

そんなにダサいことはありません。

 

ルフィ力で才能をカバーしよう

誰しも何か他人よりも突出している才能があればと思ってしまうものですが、そんなものは持ち合わせていない人がほとんどで、僕もその1人です。

 

しかし才能がない人間でも結果は出せますし、そんな人はいくらでもいます。

そういう人はどういう戦い方をしているのか、についてです。

 

人一倍努力している、なんていう安易な結論ではありません。

そういう根性論は嫌いですし、努力しても結果に結びつくとは限らないというのが僕の考えです。

 

自分の才能で勝負できないのであれば、他人の才能を借りればいいのです。

自分の力で勝負しないのは卑怯じゃないかと言われるかもしれませんが、僕は常にこのやり方で乗り切ってきました。

もし自分の実力で全て乗り切れるとわりきってやっていくのだとしたら、とんでもない実力と才能が必要です。

僕は自分にそんなものが備わっていないと自覚しているため、躊躇なく他人の力を借ります。

 

たとえ卑怯といわれようと無理なものは無理です。

むしろ意固地になって結果を出せないことの方が問題なんじゃないかと思います。

 

だから僕は職場などでは、最初から全力で先輩に好かれにいきます。

先輩に教えてもらえないとやっていけないと分かっているからです。

たまに入社したタイミングから、自分の実力でやっていくといわんばかりに先輩を拒絶する人がいますが、仮に僕がそんなことをしていたら、今頃僕は終わっていると思います。

 

別に媚びるわけではありませんが、「こいつになら教えてあげたい」と思ってもらえた方が万事上手くいきます。

 

新人の時に限らず、人は誰しもできる分野とそうでない分野があります。

だから得意分野以外は、他人にカバーしてもらえばいいのです。

 

鉄鋼王のカーネギーが墓碑に刻ませた言葉が、「おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男ここに眠る」というもので、僕の指針とする言葉の1つです。

つまり自分1人ではできないことだらけですが、それならば自分ができないことをできる人を味方につければいいのです。

 

これと同じようなことを言っている人、というかキャラクターがワンピースのルフィです。

ルフィは、仲間のナミを敵のアーロンから救い出すために戦っている時に、「俺は助けてもらわねえと生きていけねえ自信がある」と高らかに宣言します。

 

よく考えたらルフィは戦闘能力以外には優れた能力はありません。

料理もできないし航海術も知らないし医学も分かりません。

航海をするうえではこれらは致命傷です。

だからこそルフィはそれができる人を仲間にしますし、その仲間が傷つけられることは許さないのです。

 

ルフィと同じく海賊であるミホークが彼を評した言葉が、ルフィのそんな性格を最もよく表しています。

「能力や技じゃない。その場にいる者たちを次々に自分の味方につける。この海においてあの男は、最も恐るべき力を持っている」

さまざまな能力者が出てくるワンピースの世界の中で、そういった能力ではなくて人を味方につけてしまう魅力という、我々のいる現実世界でも持ち得る力を最も恐ろしいものと考えているのが非常に印象的です。

上司と部下は分かり合えるのか

「今どきの子は情けない」、「指導をすればパワハラと言われる」と嘆く上司と、「まともに自分のことを評価してくれない」「昔の価値観を押し付けてくる」と不満に思う部下の対立は、ありとあらゆる職場で巻き起こっていることでしょう。

 

この対立を解消するには、お互いが相手への偏見をなくして歩み寄る以外にありません。

 

まず上司側は、「怒られるとすぐ辞める今どきの子」というステレオタイプに囚われすぎている気がします。

そもそもいろんな人がいるわけですから、「今どきの子」という括り方に無理があります。

 

最初からそういう目で見ていると、少しでもそういうところが見つかると「やっぱりこいつは軟弱なやつだ」となってしまいます。

人間いろんな面がありますから、誰にもそういう部分はあるのに、それが全てと判断してしまうのです。

 

さらに不思議なもので、人間そういう性格だと相手に思われていると分かると、本当にその性格に寄っていってしまいます。

「自分はこういう性格なんだ」と思い込んでしまってその殻に閉じこもってしまうのです。

 

部下を指導する立場として、部下のことを正当に見ようとしないのはどうかと思います。

中には、どうせ今どきの子だと最初から育てるのを放棄しているような上司もいます。

そうなってくると、じゃあなぜ採用したのかという話になってきてしまいます。

 

一方で部下の側ですが、上司のやることなすことを全て悪意ととるのはよくありません。

もちろん本当に悪意でパワハラをする人もいますし、そういう人は論外ですが、上司も部下を育てるという使命がありますから、部下のためを思って言ってくれています。

 

口酸っぱく自分の課題点を指摘する上司は、むしろいい上司だと思うべきです。

そんな相手の恨みをかうかもしれないことを、普通ならわざわざ言いません。

しかし「言ってあげないとこいつは恥をかくことになる」と心配して、恨まれること覚悟で言ってくれているのです。

それを全てパワハラだとか言ってはねのけるのは、あまりに狭量だといえます。

 

上司が善意で言っているのか、悪意で言っているのかをちゃんと見極めてから判断するべきです。

 

「怒られるのが怖い」という人もいるでしょうし、もちろんいきすぎた怒り方はよくありません。

しかし一番怖いのは、問題行為をしているのに誰も怒ってくれないことです。

それは見捨てられているということで、確実に裏では文句を言われています。

そう思うと、「言われるうちが花」というのは金言です。

 

 

人生に哲学を② 21世紀の日本人はどう生きるか

前回の記事を日本の戦争についての話で終えたので、それに関連して話を続けます。

 

歴史作家の司馬遼󠄁太郎は、戦争を経験したことで「いつから日本人はこんなに愚かになったのか」と疑問に感じて、それを動機に歴史小説を書き始めました。

そして司馬は、明治までは日本人は偉大だったという結論に至りました。

 

人間というものは、根本はいつの時代もそんなに変わりませんし、「昔は良かった」みたいな話はあまり好きではありません。

それでも、幕末の動乱の中で明治維新を遂げた日本人を考えてみると、明らかにあの頃の人たちは違うなと思ってしまいます。

 

当時欧米列強に狙われて植民地化の危機のあった日本は、黒船の来航からわずか10数年で近代国家に変身を遂げます。

これは歴史的快挙ですし、当時の人々が自分のことよりも、どうすれば社会がよくなるかということを冷静に考えて実行できたからこその結果でしょう。

 

今の時代も日本はさまざまな問題に溢れています。しかし日本人が、幕末の時のようにそれを乗り切れるかといわれると疑問です。

果たして戦後になって日本人は変わったのか、あの戦争の時の体質を受け継いだままではないか、とも思ってしまいます。

 

ちなみに日本人に絞っているのは、単位を小さくしたほうが考えやすいからというだけで深い意味はありません。

本当は全人類規模で考えるべき問題かもしれませんが、規模を広げすぎると考えるのが難しくなるので、今は自分たち日本人に絞って考えています。

 

社会の諸問題を解決するためには、それぞれが自分の価値観を持って、自分がこうすれば社会のこういう問題が良くなるんじゃないかと考えることが大切です。

何も大それたことをしないといけないというわけではありません。

ちっぽけな行いでも、多くの人間が行えば大きな前進となります。

だから前回の記事の最初でもいったように、難しいことではありません。

 

僕はこのブログで、自分の価値観、目的を考える手助けになることを書けたらと考えています。

だから社会や人間に関しての問題に触れる記事や、考え方が豊かになるような記事を書いていくつもりです。

 

最後に日本人はこれからどう生きていくべきかを考えるうえで、「21世紀に生きる君たちへ」という小学生向けに教科書に書かれた文章を紹介します。

書いたのは、日本の戦争に絶望して過去の日本人を深堀りしたあの司馬遼󠄁太郎です。

 

「21世紀に生きる君たちへ」は短くてすぐ読めるので、ぜひおすすめしたいのですが、これほど素晴らしい文章は他にないといっても過言ではないと思っています。

ここでは一部引用します。

 

「君たちは、いつの時代でもそうであったように、

自己を確立せねばならない。―自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を。そして、すなおでかしこい自己を」

 

「自己といっても、自己中心におちいってはならない。人間は、助けあって生きているのである」

 

「助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、

いたわりという感情である。他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。『いたわり』『他人の痛みを感じること』『やさしさ』みな似たような言葉である。もともと一つの根から出ているのである」

 

「この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない」

 

「書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた」

 

司馬はここで、それぞれの人間が頼もしい人格をもって他者に優しくできるならば、未来は明るいということを主張しています。

 

日本人への絶望からスタートして過去を見つめてきた彼が、最後に未来は明るいという結論に至ったのは、とても深いことのように思います。

 

僕は先程戦後になって日本人はそれほど変わっていないのではないかというマイナスのことを書きました。

しかし人間というものにあれほど向き合ってきた司馬遼󠄁太郎がそういうのであれば、きっと未来は明るいのでしょう。

ただそれは、あくまで「他人への優しさを持った自己を確立できれば」という条件のもとです。

 

 

 

人生に哲学を① 自分の価値観を持つということ

今回の記事はこのブログをどういう意図で書いているかという、根本的な内容です。

 

「自分なりの目的を持って、誰かのためになる人生を送ろう」というのが、基本的なこのブログの主張です。

難しいことのように聞こえますが、よく考えたら今の社会でも「こう生きるべき」という縛りは多くあります。

「家庭を持つべき」、「多くの収入を稼ぐべき」、「いい大学、いい会社に入るべき」、こういったものです。

 

逆に僕は、それらに対してはそうあるべきだというつもりは全くないですし、そんなものはその人の自由だと思っています。

そう思うからこそ、それらに代わってみんなが目指しやすい生き方のモデルを提示しているつもりです。

 

収入や学歴といった世間的な名誉を気にした生き方は当たり前のようになっていますが、負け組を生むことにもなりますし、よく考えたらかなりしんどいことをしています。

むしろ僕が提示している生き方のほうが、楽だし幸福感も上がると思っています。

 

誰かのために生きていると思えたら生きがいにもなりますし、他人とのつながりを感じられます。

また自分だけの目的のために生きられたら、人生を自分でコントロールできている感覚を持てるはずです。

だからこそ、「自分なりの目的を持って、誰かのためになる人生を送る」というのは、幸福感につながる生き方だと思うのです。

 

それでも自分なりの価値観や哲学みたいなものを持つのはめんどくさいし、そんなものが必要なのかという考えの人もいると思います。

 

ここで紹介したいのが、第二次大戦時のナチス・ドイツアイヒマンという人物についてです。

彼はヒトラーの命令に忠実に従い、ユダヤ人の虐殺を淡々とこなしました。

 

戦後アイヒマンに対する裁判が行われた際、人々はどんな極悪人が出てくるのかと想像していたら、意外にも出てきたのは平凡な人物でした。

アイヒマンはただ自分が求められていることを実行した、ある意味真面目な人間だったのです。

そうであるがために、彼はユダヤ人虐殺という歴史的犯罪を推し進めることになりました。

 

アイヒマンに限らず、当時のドイツ国民はヒトラーがどういう人間で何をもたらすかを深く考えずに、彼を選挙で指導者に選びました。

自分の価値観ではなく、世間の流れ、意見に従うというのは、極端な場合にはこういう結果を引き起こすのです。

 

それはドイツの場合だけではありません。

同じ時代の日本も同じことです。 

 

僕は大学時代に日本がどういう流れで戦争に向かっていったのかについて学びましたが、なんて愚かな時代だったのだろうと思わざるをえませんでした。

たまにあの時代を正当化して、日本のかつての戦争を悪くいうのを反日だという人がいますが、そういう人はあの時代の日本のどこをそこまで誇りに思えるのか分かりません。

むしろ僕は日本という国は大好きですし、そうだからこそあの時代の異常さには唖然としてしまうのです。

 

政治学者の丸山眞男が「無責任の体系」という言葉で表現したように、当時の日本には責任の所在がありませんでした。

軍部、政治家、メディアがそれぞれ国家、社会のためではなく、自分の組織、あるいは保身のために動きました。

その結果日本は泥沼の侵略戦争を開始し、国民は熱狂してそれを支持しました。

 

話が脱線したようですが、このように自分の芯となる価値観、哲学がないと社会が良くない方向に流れていてもそれに気づかないことになります。

他人軸や世間の名声よりも、自分の目的や社会のためになる生き方をとるべきだと考えるのはこのためです。