憲法改正をどう考えるか

安倍元首相が悲願としていたのが憲法の改正であり、その悲願は岸田首相へと引き継がれることになりました。

 

自民党憲法への自衛隊の明記など部分的な憲法改正を主張していますが、かつての自民党憲法改正草案を読むかぎり、その最終目標は根元から今の憲法の理念を変えてしまうことにあるのではないかと疑わざるをえません。
現在の憲法が個人の権利を十分に尊重しているのに対し、改正草案には権利は義務が伴うのであり、公益を犯さない範囲でのみ認められるべきだという主張が記されています。
いわば現在の憲法には個人の権利のみを主張して、それを縛るものがないというのが自民党憲法を改正したい理由の1つだということです。


しかし現在の憲法には「公共の福祉」という概念が記されており、自分の権利のために他人の権利を侵害することは許されていません。
だから個人の権利がいきすぎないように抑制はされているというべきなのですが、改正草案では新しい条文を作ることでその抑制をさらに強くしようという意図が見られます。

 

個人間の権利の衝突を防ぐための「公共の福祉」では不十分だという主張の裏には、国家の権力と個人の権利の衝突までをも憲法の条文で防ごうという思惑が感じられます。
しかしそれがいきすぎると、国民がデモを起こしたり政権を批判するということも認められなくなる恐れがあります。
憲法とはそもそも国家権力を縛って個人の権利を保障するものであり、そうでなければ民主主義が成立しなくなってしまいます。

 

また改正草案の前文には愛国心、道徳といった自民党イデオロギーが盛り込まれているということにも問題があります。
愛国心や道徳を持つこと自体は悪いことではありませんが、それは政府から強制されるべきものではありません。
法律と道徳を分けるというのは近代以降に築かれた政治学の常識であり、改正草案はそれを反故にした内容になっています。

 

自民党憲法を改正したいと願う動機の1つに、現在の憲法は日本人ではなくGHQの手で作られたものだという「おしつけ憲法論」があります。
しかし、この「おしつけ憲法論」が正しい主張であるかを深く考える必要があります。


そもそも当初GHQは日本側に憲法を作らせるつもりでいたものの、提出されたものが以前の明治憲法とほとんど変わらないものであったため、結局GHQによってまとめられることになったという経緯があります。
つまり日本人の手で条文を作るチャンスはあったにも関わらず、日本側がそれを活かせなかったのです。

 

さらにGHQ案が提出されてから国会で審議がされ、それによりできた新しい憲法を当時の日本国民は抵抗することなく受け入れたのであり、アメリカが作ったものを日本人は逆らえずに受け入れざるをえなかったかのような言い方は事実とは異なります。


またマッカーサーは日本国民が作った憲法研究会による憲法草案を参考にしており、それがGHQ案のモデルになったともいわれています。

 

現在の憲法の中で時代にそぐわなかったり、新しく必要になるものがあれば部分的に改正するということは認められるべきです。
しかし「日本人の手で新しい憲法を作るべきだ」というようなイデオロギーによる改正は非常に危険です。
あくまで生活していくうえで必要となる改正を、現実的に議論していく姿勢が求めら