競争の功罪

 

何年か前に、就活サイトで掲載された「底辺の職業ランキング」が批判を浴びることがありました。
当然許されない差別意識だといえますが、就活をする時にできるだけ世間に誇れる会社に入ろうと考える学生は多く、職業を序列化する意識が日本社会に根付いていることは確かです。
だからこそ就活サイトの内容だけでなく、人々の意識を強く縛っているこの社会の階層そのものを見直す必要があります。

 

学歴や年収で他人に勝たないといけないという緊張感は、終身雇用が崩壊して新自由主義が唱えられるに伴って強まってきています。


さらにその意識は大人だけが持っているものではなく、小学生や中学生の段階から厳しい競争を強いられることになります。
点数がとれないと良い学校に進学できないという危機感だけでなく、スクールカーストの上にいないと落ちぶれるという別の階層意識にも襲われるのです。


社会で競争が激しくなることに伴って学校でのいじめも増えたというのを聞いたことがあります。

そのように、「落ちぶれてはならない」という意識を子ども時代から強く持ち続けなければならない今の社会に疑問を感じます。

 

能力主義や自己責任論が現在主流になっていますが、その考え方だけで人の価値を測るのは短絡的というべきです。
人の能力というのはさまざまであり、それを一度の就活の面接や受験の点数、会社の評価だけが全てだと思うべきではありません。


落ちこぼれる人間は自己責任だという考えも、その人本人の問題以外の社会や環境の要因を無視しているといえます。
日本国内で家の収入とそこで生まれた子どもの学歴に相関関係があることが証明されており、競争そのものがフェアーでないことも指摘されています。


もともと身分に関係なく自由に仕事ができる社会を目指して資本主義が生まれましたが、現代は階層にとらわれてそこから仕事を選ぶ時代となり、その前提が崩壊しているように思います。

 

とはいえ競争がなくなれば社会が回らなくなるというのも事実です。
誰かに勝とうとすることで人や組織が高いパフォーマンスを発揮することもあります。


しかし激しい競争のもとでは勝つために誰かを陥れるということも起こりえるのであり、パフォーマンを下げる方向に進むこともあるのです。
全く格差のない平等な社会というのは理想論かもしれませんが、敗者が落ちこぼれないようなセーフティーネットが十分に用意されているべきです。

 

ジョブ型雇用が進んでいる今の日本では、誰かとの勝ち負けを意識しないわけにはいかなくなっています。
しかしそういう時代だからこそ、現代人はあえて自分と他人を比較しないという対極の価値観も身につけるべきではないかと思います。


それは何の目標も持たずに適当に生きろというわけではなく、他人軸ではなく自分軸で生きていくべきだという前向きな価値観です。
人生とは自分が生活や仕事でやり遂げたいことを貫けばいいのであって、本来他人に勝っているか負けているかということはそれほど大きな問題ではないはずです。
それが今の競争社会ではあたかも他人に勝つことが目的であるかのようになっており、それでは本末転倒というべきです。

 

そもそも勝ち負けの基準となっているものには年収や学歴などいろいろありますが、そういうものは誰かが便宜上作っただけのものにすぎません。
いわばこの社会にある階層とは幻想のものであり、その階層の中で登りつめることにそれほど意味があるでしょうか。


もちろん立場が偉くなればできることも多くなるでしょうが、それは自分の目的のための手段にすぎないのであって、それ自体が目的として生きていくのは他人軸で生きているように思えます。
上昇志向があるのは素晴らしいことですが、それはあくまで自分だけのオリジナルの目的のために持つべきであり、それでこそ自分軸の人生を歩むことができます。