「人間の安全保障」とは、安全保障の概念を軍事関係だけでなく人々の生活のレベルにまで広げた概念をいいます。
この本はインド出身でノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センが、各分野ごとに「人間の安全保障」について語った小論集です。
1 宗教とグローバル化
センは世界中の人間を宗教だけで分類することに苦言を呈します。
「人間を分類する際に、宗教以外のすべての要素を無視することは、人を対立の可能性のある陣営に分ける」ことになります。
例えばサミュエル・ハンチントンの有名な著書「文明の衝突」では、インドをヒンドゥー文明としていますが、インドには多くのイスラム教徒がいるという事実を無視しています。
このような強引な宗教による線引きは、分断や対立を生む恐れがあります。
またグローバル化についてはその賛成派も反対派も、「世界を西洋化すること」だという前提が一致しています。
賛成派は「西洋の偉大な功績が世界に広がっている」といい、反対派は西洋との対立をあおることでグローバル化に対抗しようとするのです。
しかし歴史とはそれほど単純なものではなく、グローバル化は西洋以外の多くの地域の影響も受けながら進んできたものだといえます。
センはグローバル化を否定していませんが、とはいえグローバル化が利益の配分を不公平にしていることを指摘しています。
そこを改革したうえでグローバル化を進めていく必要があります。
2 民主化と西洋化
センは民主主義とは投票の自由に限定されるものではなく、「公の場の自由な議論と相互の協議を保障することに主眼をおかなければなりません」としています。
言い換えれば、アメリカの思想家ジョン・ロールズが述べているように「原則の多様性ー多元主義という事実」を保障するということです。
さらにセンは、民主化を西洋が推し進めてきたものだという固定観念に疑問を呈します。
「多元主義、多様性そして基本的な自由が擁護されてきた事例は、多くの社会の歴史に見いだせます」
一般に古代ギリシャが民主主義の歴史の原点とされます。
しかし「古代文明のなかで、ギリシャ以外にもやはり寛容、多元主義、そして社会における討議をつちかってきた長い歴史があります」
例えば東洋の仏教には民主主義の源流を見い出せます。
「仏教学者が信徒だけでなく一般の人びとにも教えを広めようと努力したことは、民主主義のルーツが世界各地に見いだせることと大いに関係しています」
また日本で聖徳太子が定めた十七条憲法についても、「民主主義に向けて徐々に歩みはじめた第一歩」としています。
そのような世界全体で共有すべき民主主義という概念を、西洋が自分たちが築いてきたものを他の地域に広めるという姿勢でいることは傲慢なのではないか、というのがここでの主張です。
3 インドと核爆弾
インドとパキスタンはお互いに核兵器を所持し、その力を増強し続けて牽制し合ってきた歴史があります。
これには国際社会からの非難がありますが、センは「欧米の批評家が自国の核政策の倫理的な問題を充分に検討もせずに、インド亜大陸の核の冒険のあら探しをすること」に疑問を感じるとしています。
とはいえ「五ヵ国の核政策が根本的に間違っていると主張したからと言って、独善的な世界政策にたいする怒りがインド亜大陸で蔓延している現状を、放っておいてもよいことにはなりません」とも主張します。
ケネディがアメリカの大統領だった時代にキューバ危機が起き、世界は核戦争の一歩手前を経験しました。
「冷戦時代ですら、世界が全滅を免れたのは、実際、かなりの幸運によるものだったことを認識すべきなのです。絶滅の危機は、常軌を逸した者や独裁者によってのみもたらされたのではなかったのです」
4 人権を定義づける理論
人権とは法律により生まれる概念ではなく、むしろ人権という概念が法律の親の役割を果たさなければなりません。
また立法化だけが人権を推進する手段ではありません。
NGOなどの活動もそれに含まれますし、狭義で人権を捉えるべきではありません。
また彼は富の有無だけで人間を自由かそうでないかを判断するのでは基準が足りないとします。
例えば「所得や財産、他の基本財のような手段を同じだけ所有している健常者とくらべた場合に、障害者は実際にまったく同じ機会にめぐまれているとは言えないのです」
そこでセンは潜在能力というアプローチをして、自由の定義をさらに広めました。
「潜在能力は一種の自由であり、これは人が良好な栄養状態であることをはじめ、生命活動の特定な組み合わせをどれだけ選択できるかを表すものです」
その地域で行われている慣習が人権に反するかどうかを判断するには、一定の距離を置いた「他の人間の目」に照らす必要があります。
だからこそ「国境を越えた双方向の交流の必要性は、裕福な社会にとっても、貧しい社会にとっても重要です」
センの論述は他にも環境問題や持続可能性にまで及びます。
全ての人間が本当の意味で豊かに生きられる手段について、狭い視点にとらわれることなく述べたその内容は、これからの人類に大きな示唆を与えてくれます。