「サピエンス全史」は2500万部を超えた世界的ベストセラーであり、発売当初日本のメディアでも大きく取り上げられて話題を呼びました。
人類の歴史を体系的にまとめており、そこから多くの教訓を得られる内容となっています。
最近文庫化されたことも話題となり、その文庫版を買って読んでみました。
1 虚構が果たした役割
ホモ・サピエンスと他の人類種、動物との大きな違いは、認知革命を経て「虚構、すなわち架空の事物について語る」能力を得たことです。
それは例えば伝説や神話、神々、宗教といったものです。
また近代国家の国民主義もいわばそのようなフィクションといえます。
そして神話のような虚構を集団で信じることができるようになったということは、「大勢で柔軟に協力するという空前の能力」を得たということです。
「歴史の大半は、どうやって厖大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。
もし私たちが、川や木やライオンのように、本当に存在するものについてしか話せなかったとしたら、国家や教会、法制度を創立するのは、どれほど難しかったことか」
このようにサピエンスは認知革命から現代まで二重の現実の中で暮らしてきました。
つまり「川や木やライオンといった客観的現実」と「神や国民や法人といった想像上の現実」の2つです。
そして「人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ること」により変更可能となりました。
神話を変えることができれば、それに伴い現実もすぐに変えることができるようになったのです。
例えばフランス革命では、一夜にしてフランスの人々は王権神授説の神話から国民主権の神話へと切り替えました。
だから全人類に当てはまる「普遍的で永遠の正義の原理」など存在せず、「そのような普遍的原理が存在するのは、サピエンスの豊かな想像や、彼らが創作して語り合う神話の中だけ」ということになります。
しかしそのような「想像上の秩序」を作り上げることが社会の繁栄や安定に繋がるため、それらは決して無価値ではありません。
想像上の秩序は物質的世界に埋め込まれ、知らずのうちに自分たちの欲望をも形作っています。
自分たちの生活は特定の想像上の秩序に支配されており、「その人の欲望は誕生時から、その秩序の中で支配的な神話によって形作られ」ます。
想像上の秩序が人類に与えたものには負の側面もあります。
人々はそのような秩序のもとでヒエラルキーを作り、下層の人々を差別、迫害しました。
「男らしさ」や「女らしさ」といった概念も生物学的に定義されたものではなく、想像上の秩序によって社会的に定義されたものだといえます。
2 秩序による統合
そのような秩序は当然それぞれに矛盾した価値観を抱かせることとなり、緊張や対立を生みます。
しかしこのような「認知的不協和」は人間文化の発展に不可欠なものです。
「思考や概念や価値観の不協和音が起こると、私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。
調和ばかりでは、凡庸さが幅を利かせる」
それでも人類の文化は一定の方向性に向かって変化を続け、統一に向かって進んでいます。
「紀元前1000年紀に普遍的な秩序となる可能性を持ったものが三つ登場し、その信奉者たちは初めて、一組の法則に支配された単一の集団として全世界と全人類を想像することができた」
1つ目は貨幣という秩序です。
政治的なことでは同意できなかった異なる文化に属していたものどうしが、なぜ金への信頼だけは共有できたのでしょうか。
それは「交易によって2つの地域が結びつくと、需要と供給の力のせいで、輸送可能な品物の値段が等しくなる傾向がある」からです。
「貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ」
2つ目は帝国の秩序です。
帝国というと悪者のように思えますが、人々に政治的安定をもたらしてきました。
また帝国といっても、歴史上民族排他性よりも包括的な傾向が強いものも多くありました。
3つ目は普遍的な宗教の秩序です。
古代の宗教のほとんどは「局地的で排他的」ものでしたが、イスラム教や仏教といった普遍的な宗教は「人類の統一に不可欠の貢献」をしました。
この本では共産主義や国民主義、資本主義といったイデオロギーも普遍的な宗教と同様に論じられています。
そしてそれらは、「明確な境界がない」混合主義的なものです。
「仏教徒がヒンドゥー教の神々を崇拝することができたり、一神教信者が悪魔の存在を信じることができたりしたのと同じように、今日の典型的なアメリカ人は国民主義者であると同時に、資本主義者でもあり、さらに自由主義者でもある」
3 歴史は必然なのか
ここまで見ていくと、著者はまるで歴史を必然的で進む方向が決まっているもののように捉えているかのようです。
しかしそれは誤解で、「歴史は決定論では説明できないし、混沌としているから予想できない」としています。
つまり自分たちが国民国家で資本主義を信奉しているというのも歴史の必然ではなく、ただの偶然だということになります。
ではなぜ歴史を研究する必要があるのでしょうか。
「歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。
たとえば、ヨーロッパ人がどのようにアフリカ人を支配するに至ったかを研究すれば、人種的なヒエラルキーは自然なものでも必然的なものでもなく、世の中は違う形で構成しうると、気づくことができる」